終わらない『源氏物語』、夢の続きは
『源氏物語 下 』(翻訳)角田光代(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集06)
感想
光源氏が亡くなって事実上『源氏物語』は別物と考えたほうがいいように思うが、それでも「宇治十帖」は面白かった。光源氏の物語が神話だとすれば、息子の夕霧は喜劇、薫は近現代小説という感じで、浮舟登場はもうファンタジーだった。浮舟の存在による所が大きいのだが宇治三姉妹(本当は二姉妹だが)はそれぞれよく考えられていたと思う。大君がすぐに亡くなり、中の君が薫と匂宮に言い寄られどっちか迷う展開も現代小説っぽかった。薫と匂宮のキャラが光源氏に比べて弱いのだがその分姫たちや侍女の不手際、中でも弁の尼は助演女優賞ものだよな。杉村春子あたりしか出来る人はいないのではないか?60過ぎて前半は遣り手婆だが後半は敬虔な尼僧になる。
浮舟の展開も予想外で面白かった。入水後は鬼になったり狐になったり性格も強くなったよな。これはアニメ・ファンタジーの展開。出来過ぎの面もあったが、浮舟は姫の中で一番好きかもしれない。綾波レイ・キャラな感じか(人形=ひとがたから始まった)。
『源氏物語』の和歌
昨日図書館で『源氏物語と和歌を学ぶ人のために』を借りた。まだちょい読みだが興味深いことが書いてあった。『源氏物語』の四季の描写は和歌の引用から導き出されているのだと。物語を読んでいても特徴的なのは四季の描写の多さだ。それはどんな文学よりも『源氏物語』は圧倒していると思う。それが日本人の四季感と捉えられることもあるようだ。例えば桜が咲くとふと和歌や短歌を思い出す人も多いだろう(今ではそういう人は少ないか?)。『源氏物語』にでてくる登場人物はほとんどそういう人たち(貴族)であった。ここでは桜に限定するのではなく四季の和歌ということで。
「身にしみむ」という風と秋との一体感を詠う薫の一首。秋風の感覚は、登場人物によって歌い分けられているという。
明石の君が秋風のように去って行った光源氏を詠んだ秋風の和歌だ。先の薫との違いは、一体感ではなく「うき(憂き、浮き)身」という自身の置かれた状況を詠んでいる。
中の君の歌は、「秋の風」はないと詠っているのだ。匂宮の子を身籠ったために山里(宇治)を離れて京に行く辛さを詠っている。
斎宮の女御(秋好中宮)への恋心を詠った光源氏の和歌。同じ秋風を感じたいということか?
「宇治十帖」の登場人物の和歌を見ていこう。
八の宮が妻を亡くして出家したいと願う和歌。それに対して二人の姫君の引き止めて詠んだ歌
ここでの水鳥は渡り鳥で冬の厳しさを親子三人で過ごしてきたが春になって渡りたいと願うが、二人の娘にとっては新たな冬の時の始まりなのである。
匂宮が宇治の二人の姫を見初めて送った歌。自身を牡鹿に荻を娘に喩えている。この歌は「鹿」「荻」「露」という三点セットは『万葉集』の鹿の歌を踏まえている。
そして古今集にも「鹿」と「荻」の組み合わせの歌はかなりあり、その場合「鹿」は「妻恋」に鳴く鹿なのだ。
「まがき」は「間垣」で匂宮の声を遠ざけているという意味だという。複雑だ。
秋の水鳥と鹿の後に冬の歌を送る薫。
この「千鳥」は娘たちではなく、僧侶の一群ということだが八の宮の葬儀なのであった。僧侶のお経、葬儀の朝を詠んでいるのだ。ただそれは先例となる和歌によると千鳥=妹なのであることを前提としている。
さらに『万葉集』にも千鳥の歌がある。
薫の歌は姫たちのことを思いながらも亡き八の宮の追悼という宗教心を失ってないとするのだがどうだろうか?伊丹十三『お葬式』にもあるように、「死とエロス」はけっこう結び付いてしまうのだと思う。
そして何より『源氏物語』から影響を受けた歌人として、藤原定家の「夢の浮橋」の歌を忘れてはならない。
参考本
『源氏物語と和歌を学ぶ人のために』