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シン・短歌レッスン169



NHK短歌

“ものがたり”の深みへ テーマ「架空の生き物」
大森静佳さんが選者の「“ものがたり”の深みへ」。今回のテーマは「架空の生き物」。ゲストはブックデザイナーの祖父江慎さん。司会はミュージシャンの尾崎世界観さん。

「物語」は好きなんだけどファンタジー系は苦手だった。神話は好きなんだが。最近では李白の酔っ払い話みたいな漢詩が好きなのだが、それは李白の人生を透かして見ているのかもしれない。

トーベ・ヤンソンの「ムーミン」はTVのアニメのせいかそれほど興味がなかったのかもしれない。しかし、今思うとけっこうキャラ立ちしている人物が多かった。ミーとかなんかそういう子がクラスに一人ぐらいいたような。ムーミンの原作者トーベ・ヤンソンの映画があった。

原作者のトーベ・ヤンソンはミイのイメージでハチャメチャな人生の人だった。

クレヨンで描いた絵ムーミン一家スナフキンいるのにミイいない やどかり


<題・テーマ>大森静佳さん「踊る(テーマ)」、枡野浩一さん「おはよう/おやすみ」(テーマ)
~12月2日(月) 午後1時 締め切り~
<題・テーマ>川野里子さん「鍵」、俵万智さん「春」(テーマ)
~12月16日(月) 午後1時 締め切り~

吉川宏志「塔」

この本(小高賢『現代短歌の鑑賞101』)の写真は若いな。NHK短歌の講師なのでかなりベテランの人かと思ったら穂村弘よりあとの世代だった。保守的な感じがしたのでそう思ったのか、穂村弘らのニューヴァースを受けた後の保守本流というような短歌だろうか?京大という系列も大学短歌会出身のようで、短歌専門の人のようだ。

四十になっても抱くかと問われつつお好み焼きにタレを塗る刷毛 吉川宏志

『青柳』

相聞歌であるという。聞く方も聞くほうだと思ってしまう。未来を予約しているようで好きになれない。お好み焼きにタレを塗るぐらいでちょうどいいのかもしれない。京都短歌会は永田和宏が顧問だったのか?それで手慣れた感じなのか。『青柳』は私小説短歌というような内容だと言う。こういう歌集はかつては女性歌人しかなかったという。そうなのか?

「イラク軍の盲撃ち」と言いしキャスターが謝罪しおり地形図を背に 吉川宏志

『青柳』

社会詠もそこそこ詠んで万能選手という気がする。

詞書と歌のようにも寄り添える夫婦といわば 白き行間 吉川宏志

『青柳』

詞書の多い短歌はすきじゃない。それは定型を外れていることなんだが。その内に詞書は必要とされなくなると意味も含んでいるのだろうか?

『虚像の鳩』は方法論的に転換期で、現実の喪失感を現実の何かで埋めようと短歌を詠んだという。

晩年は自然との交歓を詠む。

辰巳泰子

この人は結社に入ってないのか?一応「短歌人」にいたようなのだが独立無頼系か。『アトム・ハート・マザー』という歌集が気になるのだがピンク・フロイドの『原子心母』じゃないか?

男らは皆戦争に死ねよとて陣痛のきはみわれは憎みゐき 辰巳泰子

『アトム・ハート・マザー』

ロックな感じ。でも母になるんだよな。そこが『アトム・ハート・マザー』なのか?

乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる 辰巳泰子

『赤い花』

頭の良いちょっと良家のヤンキー姉ちゃんという感じか?だからロックだぜ!みたいな。ジャニスとか好きそう。

半夏生過ぎてはるばるさむかりき私に つまありしの日の水 辰巳泰子

『千川心中』

結婚するとつまんなくなっちゃうんだよなのタイプか?

時計草をさんにんで止まり眺めたり雨の合ひ間の夕闇のとき 辰巳泰子

『千川心中』

荻原裕幸

短歌界の「ひろゆき」か?俵万智や穂村弘の歌集のヒットで勢いづいたが、情報化社会のなかであっというまに消費され、それらはノイズだったように消えて行く時代だったとゼロ年代評なのか。その後に反動のように保守的な伝統回帰になっていくのと相変わらず消費されていくコピーライト化という感じだった。

まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す 荻原裕幸

『青年霊歌』

高橋源一郎を奪つて読みあつてほほゑみふかしいづれは寒し 荻原裕幸

『甘藍派宣言』

なんとなくわかるような気がする。結局、高橋源一郎も情報化していくというような

春の日はぶたぶたこぶたわれは今ぶたぶた睡るしかない 荻原裕幸

『世紀末くん』

加藤治郎 岡井隆師事

俵万智と「現代歌人協会賞」を同時受賞とあるが印象が薄い。いわゆるライトヴァースなのだが、穂村弘が目立つのか影薄い感じだ。それでも最初の歌集『サニー・サイド・アップ』は名前は聞いたことがある。が、読んだことはなかった。

ほそき腕闇に沈んでゆっくりと「月光」の譜面を引きあげてくる 加藤治郎

『サニー・サイド・アップ』

なんかいいとこの坊っちゃんみたいな短歌だな。毒がないというか、素直なのか?岡井隆師事だった。

ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち 加藤治郎

『マイ・ロマンサー』

サブカルを短歌に注入したというが荻原裕之が高橋源一郎に対して、加藤治郎は村上春樹という感じなのか。そのおしゃれさが女子に人気というような。ジャズならばビル・エヴァンスという感じ。

言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ラン! 加藤治郎

『ハレアカラ』

こういう記号短歌は一回やったら後が続かない。

意味もなく頬をふるようなありふれたパーティーのそのどれもが好きさ 加藤治郎

『ハレアカラ』

取り入るのが上手いやつという感じだがこの感じだと残らないよな。

ぼくんちに言語警察がやってくるボンボンダリアって言ったばかりに 加藤治郎

危機感が感じられなくただゲームのように短歌をやっているだけに思える。

にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎

この短歌は斎藤茂吉の鶏の歌を踏まえていると思うのだがそこに社会性なんかあるのか(小高賢はそう捉える)。単に実験的なゲームのような短歌に思える。

水原紫苑「短歌」春日井建に師事

男子はポップ路線を進みながら女子は俵万智系か巫女系の和歌的な短歌を読む。水原紫苑が気になったのは反天皇制を打ち出した歌があったと思ったが内容より調べだという。

殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へろ 赤蜻蛉あかあつき  ゆけ  水原紫苑

『びあんか』

魚食めば魚の墓なるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり 水原紫苑

『うたうら』

このスタイルが出来ているので固定層のファンか。和歌風なところで決めは「くちづけ」とか「ゆけ」とか言葉に強度がある。

父母の白荻われの白荻のあはひかそけき犬の白荻 水原紫苑

『客人』

白荻における記憶を和歌風に続けた後に現実の犬のマーキング。好きかもしれない。

岡井隆

『岡井隆歌集』(現代詩文庫)から。まず(現代詩文庫)に入っている歌人ということが注目してもいいかもしれない。詩の方でも認められたのは吉本隆明の批評でもわかると思う。歌人は岡井隆と塚本邦雄だけ。塚本は詩も書いているのでわからないこともないが、岡井隆は歌人の中の歌人という代表のような気がする。今だと穂村弘とか入ってもいいかもしれない。

吉本隆明「岡井隆の近業について──『家常茶飯』を読む。

死者モマタ老ユルトイフカ亡キ父ノソソケガミ フカク山河 サンガ覆フハ 岡井隆

『家常茶飯』

「山河覆フハ」は絶唱としているのだった。挽歌は、一番愛する人に捧げる歌なのだ。亡父の老いを観て自分の存在を覆う山河の如しというのは、漢詩をも思わせる。仮名のカタカタ書きがそう思うのか?古典の詩形の音数律を表現技法として探求し続けた歌人が円熟期に達した成果だという。それは短歌の定型が醸し出す雰囲気なのか?父と共に作者も老いていく。その勇壮な時間の流れが中国の漢詩的世界から和歌の美的世界へという感じさせるのだろうか?

距離の感覚がわたしにうすれてきているから言うと、そのままいこうじゃないですか。 岡井隆

『家常茶飯』

これは岡井隆の言葉だと思うが「あとがき」か何かかな。そのへんのことが書かれてないのでわからないんだけど、短歌ではないよな。

 一世紀かけて世界を変へ来て一世紀かけ腐り果てたり 岡井隆

軍国主義から左翼まで経験してきたことを詠んでいるという。そういうモチーフを持てたのは新古今の後鳥羽院だけだという。

われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け 後鳥羽院

吉本は塚本邦雄を藤原定家に、岡井隆を西行だと見てきたというが実は逆だったのではという。

青き菊をちぎりつつわたしを待つなんて出来まいわたしはゐないのだから 岡井隆

塚本の葬儀を詠んだ挽歌であろうか?吉本は岡井との短歌論争で岡井の弁護を引き受けて塚本邦雄が出てきたことに感銘を受けていた。そのころは古典和歌が現代短歌より優れていると思ったが今はみな現代詩だという。

右の手がグラスを倒し意外なる展開さそふ夕べとなりぬ 岡井隆
請求書来て領収書出るまで枯葉捲きゆく風のするどさ

老いを生活の中に見つめて短歌を詠んでいる。

あたたかさうな便座の覆ひ 去る前のたらちねの家の最後の記憶 岡井隆

自己劇化よりも他者(母)を詠んでいるのは古典和歌よりも現代詩に近づいているとする。「詩」としての「短歌」。

妹こそはじめて出逢ふ「美少女」だうでまくりして絞つてゐても 岡井隆
経歴の細部は知らぬ 兄妹あにいもうと  やすらかに還れ故郷へ

挽歌がいいようだ。この妹は「異母妹」でかつて父親に反抗していた妹。権威ある父の裕福な息子として左翼化していく自己と合わせて比較しているという。

殺したんだ。と言はれや医者はさからはない確かにモードの中の死だった 岡井隆

医者としての職業と倫理観の乖離の中で死を見つめている。確かにあの先生が死を早めたと思いがち。それは二人称の家族と三人称の医者との違いか?

思想界。そこにもハナエ・モリは居て「いいなあ」つて直ぐそれにやられた 岡井隆
帝国主義・ポストコロニアル・ヘーゲル読み直し〈脱構築〉だなんて古いなあ君

ファションのモード界と現代思想を同列に詠んでハナエ・モリを褒めそやす。吉本の「ハイ・イメージ」論に近いのだろう。

天地ハ母さはされど継母 ママハハノ黒衣ノヤウニナビク夕グレ 岡井隆

歌人岡井隆が育てられたのは黒衣の編集者中井英夫を連想させる。「天地」という和歌の言葉の世界に継母がいるのが短歌の世界なんだろうか?

現代歌人と歴史意識

『短歌 2024年10月号』より特集「現代歌人と歴史意識」。

斎藤斎藤「もし僕が生まれ変わって」

和歌のアニミズムは始めは自然界の大きなもの龍とか山に視線が注がれたが、仏教思想の伝来と共に小さなものへにも目を向けるようになったという。その変節にある陰陽師で蚊を媒体とするマラリアに小さき鬼を見てそれを追い出さねばと祈祷をしたという。当時にてすでに蚊の媒介するウィルスに注目していたという(それは偶然だろうと思うが)。

中世の祈祷師は医者であって、病人のケアラーであったことに注目するのだが、そこに岡井隆の短歌を重ねてみたくなる。つまり医者としての科学の最先端にいながら呪術を始まりとする歌に惹かれていく姿は現代の祈祷師といえるのかもしれない。

楠誓英「ニュー土屋文明」ということ 

「現代短歌」9月号の特集で「アララギ新世紀」でポストニューウェイブの流れで「ニューアララギ」ということが言われているが、「アララギ」派も範疇が広く子規から茂吉となると作風もスタイルも違う。それは子規が「万葉調」といいながら、その主旨は新古今調の歌壇への改革であったので茂吉が「万葉調」から疑似古典風短歌を生み出したことは違う。

そのなかで土屋文明は短歌論でも『新編短歌入門』によって新しい「アララギ」派を形成して行った。それは戦後短歌においても土屋文明を師とする歌人が戦後短歌を牽引していたことからも重要歌人であることが伺える。

では何が土屋文明の短歌に惹きつけられたのだろうか。それはずばり文語の終焉を言って口語短歌の予測していたという。それは短歌が技工性ではなく素朴な感情発露にあると見るからだった。口語短歌が詠嘆表現を獲得して(それは極めて技術的なことではあるのだが)、俵万智や栗木京子を生み出したこと。それらの短歌は永井祐から始まったという。それは新しいリアリズム短歌の始まりであった。ニューウェーブ短歌もいろいろあるのである。

パチンコ屋の上にある月 とおくとおく とおくとおくとおくとおく海鳴り 永井祐


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