様々な生まれ変わりの物語
『取り替え子 』大江健三郎(講談社文庫)
大江健三郎が義兄である伊丹十三の自殺を乗り越えるために書いた小説。大江健三郎は長江古義人(この作品で始めて登場するがその後の作品にも登場してくる)として、自殺した映画監督の義兄を吾良として、トランクに残されたカセットテープ(吾良が自殺しそうな古義人を励ますために送ったテープと)を聴きながら、「田亀」と名付けたカセットプレーヤーを通して対話していく。その中で二人で作ろうとした架空の映画シナリオ(武満徹のモデルとされる作曲家のオペラ作品として)や二人の出会いの青春時代のことが描かれる。
その中で古義人の父の戦後の死の真相とその仲間たちの計画(右翼的な反米闘争)が語られる。その様子はランボー『地獄の季節』の小林秀雄訳『別れ』の中の詩として、記憶に刻まれる(ヴェルレーヌとの関係か?)そこにGHQの米兵とのホモセクシャルな関係やらが語られるが、工藤庸子『大江健三郎「晩年の仕事」』でも重要作品として、その後の作品に繋がっていく。『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』のレイプされた少女と繋がっている。
また大江健三郎の小説の手法は吾良によって『ドン・キホーテ』のような騎士道物語の批評として、自らの小説を批評していく文体を見出していくのだ。「晩年の仕事」の語り直し(リライト)は、そういう手法で大江健三郎が自身の作家時代を振り返ると共に作品の批評というメタフィクションにもなっている。それは私小説を超えた「オートフィクション」(プルースト『失われた時を求めて』のような)としてフランスでも位置付けられている。
吾良との映画も当時のニュージャーマンシネマの若手監督の実験映画として作られていたというどこまでが本当なのだろうか?と興味深い話になっていく。
かなり物語も錯綜としていて、後半は「チェンジリング」の解題として、吾良の妹であり大江健三郎の妻である乗り越えの物語として、モーリス・センダックの絵本の『取り替え子 』の話が吾良と関連づけられて語られる。その部分がわかりにくいが後の小説として膨らんでいく予感はする。
また「田亀」の解体(批評)のメタファーとしてスッポンの解体の挿話は『ハンチバック』で芥川賞候補となった市川沙央のエッセイ(ユリイカ『大江健三郎特集』)でも語られていた。それはその後にフリーダ・カーロの話と繋がっていくような。市川沙央も大江健三郎の文学のバトンを受けっ取った一人の作家だということだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?