シン・現代詩レッスン91
北村太郎「詩の詩」
『新選 北村太郎詩集』からなのだが、この詩は本文に掲載されているのではなく、政津勉の解説によるものだった。その解説によると四十四歳で急に詩集をだしたのは、やはり例の恋愛事件が発端だったようだ。そのなかで詩とはとか死とはとか、祈りはとか愛はとかいろいろ考えたのであろう。「詩の詩」は詩作における基本的スタイルで、同音異義語(わたしもよく使うが)「死の死」という作品が4篇収められている。それも参考に詩作ということを考えてみたい。
北村太郎の詩は自由詩ではあるが、けっこう定型を踏まえているというか、その部分が詩の背すじということなのかもしれない。少なくともここに書かれていることは肉体的なことではなく、精神的なことなのだと思う。
形而上学的に書いていたのは「眠りの祈り」の二行詩の長歌だと思う。「死の死*」も二行ずつの自由詩なのだが、長歌的な形而上学的な夢と日常生活の混線の詩だった(夢現の詩で現実の部分は自然描写という感じか)。
そこには正しい形而上学的生活(カントのようだ)について書かれていたのだが、青っぽい詩だと思ったのだが、その延長線に「詩の詩」はあり、裏返した世界を覗いた詩人が後になって形而下的生活について書いたのが「死の死」ではないか。そこに「ミミズの耳は何を聞く」という自然に尋ねるフレーズがあるのだが「ミミズ」は象徴と考える。それで思い出すのはミミズに小便をかけるとペニスが腫れるという噂(誰から聞いたのか定かではないが、そう言われたものだった。だから立ち小便には注意しろということか?いや、ミミズがいるかもしれないから注意しろということなのかもしれない)。そして、形而下に堕ちたのかもしれない。
とにかくここでは形而下に堕ちる以前の詩に対しての覚書だろう。詩の目とは見えないものを見る形而上学の目ということだろう。それは精神性だ。
だいたい同じことのくり返しなので、ここはいきなり口に行くが詩の鼻では感情の憂鬱性とか快活性を感じろということで、耳では音楽を疑うこととある。それは叙情性の音楽ということなのだと思う。バッハみたいな音楽はいいのだ。シューベルトみたいな浪漫派かな。つまり詩を詩作するには、詩人の「目、鼻、耳、口」があるということだ。そして最後の口は、神に対しての祈りは罵詈雑言では通用しないので、丁寧な言葉を使えということなのしれない。それが「わたくし」性という一人称に出ていたのだと思う。
この最後のスタンザが重要になってくるのは、北村太郎の決め台詞的なものを含んでいると思うからだ。「うすら笑い」とは何か?それは自身の「うすら笑い」というより、読者や神の「うすら笑い」だろう。それは形而上学的な生活に失敗して形而下の生活に堕ちた詩人(北村太郎はこの言葉を自身で言うのは嫌ったそうなのだが)の姿ではないか?堕天使としての詩人なのである。
この後には延々と日常的な記述が続いていくのだが、それは精神性よりも身体的なことなのである。そこで大岡信や吉原幸子や山田菜々子(女優のようだ)に出会ったことが書かれている。これは日記じゃないのか?そんな仲間たちと寿司屋にはいり、吉原幸子の決め台詞は
殺されるも比喩で、それは吉原幸子の言葉によってである。それは欲望の言葉(形而下)なのだ。形而上学的な詩人がそういう形而下の言葉に殺されるのである。吉原幸子を検索したら美人の詩人だった。それが「血桜姫刺青」なのだから詩人も殺されて当然だろうと思った。
山田菜々子というダンサーの身体表現の芸術家だった。精神を追いかけていた詩人が身体性(自然)に気がついたということであろうか?
「死の死****」でもは幼少の頃の想い出話で病気になった夢の話だった。臨死体験のような詩(話)だった。自然の中に堕ちていく恐怖を語っているのだった。
自分の葬儀のシーンを夢見ている。「誄」とは死者の生前の功徳や業績を称えることだが、それも白々しく死者に第三者的に接するものしかいなかった。それで愛に目覚めたのかもしれない。「死の死」のモノローグ詩は「詩の詩」のネガだということがわかるかもしれない。
そして最初の政津勉の解説に戻るのだが、癌宣告された詩人が残りの時間の中でできるだけ詩を書きたいという話だった
これは「悪の花」の引用なのか、正津勉との会話なのか不明なのだが、そういうことであった。次回は「悪の花」だな。