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シン・短歌レッスン186
NHK短歌
光る愛の歌 テーマ「春」
俵万智さんが選者、『光る君へ』とのコラボ企画。2月は古典の魅力を発信している能楽師の安田登さんがゲスト。テーマは「春」。司会はヒコロヒーさん。
安田登は能楽師だけれども和歌より漢詩好きのようで面白かった。あと安田登の独自な解釈は俵万智の現実的解釈よりも深いけど、そこまで読むかみたいな。
飛び石の
最後であなたは
待っていて
抱きとめられに
ゆくよ三月
この歌は「飛び石」で下を向きながら不安な仕草から別れ話をしに行くつもりだったのに、「抱きとめられに」であなたに抱かれるという逆の展開になりそして三月(別れの季節)に向かっていくと歌だという。最初徐々に歩いているのだが、あなたが見えたとたんに走り出す歌だという。
それを俵万智が飛び石というのは飛び石連休で、その日にデートする歌ですという。親父残念(こっちの解釈の方がロマンチックだよな)!
人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香もにほいける 紀貫之
この解釈についてまひろ(紫式部)と和泉式部の違い。まひろは紀貫之の歌が漢詩「年年歳歳」の本歌取りで漢詩の意味から解釈していく。
そこへ通りすぎた和泉式部はそんな昔の解釈なんてどうでもよくってというのだった。和泉式部は俵万智系かも。安田登はこの歌は人生の無常観を歌っているのだとするが、俵万智は自然と一体となる喜びの歌だという。
俵万智は古典を学んで作るというが、古典のような現実よりは今の感性だろうというような歌風なのかな。パロディとしての古典というような。それは結構近いかもしれない。
この講座が「光る君へ」を出汁にして歌を作っていくとういうことなのだが安田登は古典の世界は詩(律)なので明治以降散文化されていく個人のものではなく、「あはれ」だと現在は個人のあわれしか言わないが、そのまわりに居る者全員の「あはれ」だという。歌を和するというのはそういうことだみたいな親父の意見だった。俵万智は優等生だからヒコロヒーに話題を振る。
『古事記』のアメノウズメが暗闇から笑いで世界を変えていくのは笑い=割るから来ているからと蘊蓄を語る安田登だった。親父無敵だな。ヒコロヒーがその思想に感動していた。
<テーマ>横山未来子さん「花」、荻原裕幸さん「四月」
~2月17日(月) 午後1時 締め切り~
<テーマ>永田紅さん「いのち」(動植物、細胞、光合成、遺伝・・・)、木下龍也さん「私だけの発見」
~3月3日(月) 午後1時 締め切り~
1985年以降の1980年──「ライトな私」とバブル経済
大野道夫『つぶやく現代の短歌史(1985-2021) 「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』から。ここかた俵万智の登場となるのだが誰でも上げる『サラダ記念日』ではなく、その前の『野球ゲーム』を上げている。それはこの歌集では賛否両論があったのだが、『サラダ記念日』ではすでに俵万智の評価が圧倒的だったと思われるからだ。それは歌壇以外からの評価、例えば大江健三郎や井上ひさしなどの違うジャンルの重鎮(親父殺しの短歌とも言われたが)が評価したからであろう。
『野球ゲーム』は篠弘や岡井隆などは注目したのだが俗っぽい歌で保守層には受けなかった。
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵万智
「二本」は「日本」の掛詞だとすると、日本文化の男尊女卑への歌だと思うが、それに非難するようで同化していく心情を歌っている。Geminiでは以下の批評なので、だいたい当時の保守層がいいそうなことだった。
この歌詞は、結婚に対する軽視、女性へのリスペクト不足、責任感の欠如、現実逃避といった問題点を抱えています。
そして角川短歌賞で受賞したのは次作の「八月の朝」(『サラダ記念日』に収録)だが『野球ゲーム』の方が斬新だという。
皮ジャンにバイクの君の騎士として迎えるための夕焼けろ空 俵万智(「野球ゲーム」)
この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」 (「八月の朝」)
「夕焼けろ空」の方は定型で「ホテルカリフォルニア」は字余りというのだが、固有名詞は字余りありという今では当たり前の手法で後者の方がいいのではないのか。「バイクの君の騎士」はありきたりな漫画のイメージだし。「夕焼けろ」という命令形も変だ(躍動感があるというのだが)。
俵万智の歌は一首一首よりも連作で読ませる私小説短歌であり、それが「野球ゲーム」というヴァーチャルなフィクションを語っているのである。それは俵万智という歌人をプロデュースするという俵万智の言葉にもある通りだろう。だからそこにいる詠み手を俵万智とすると不謹慎なとなるのだが、そういう世代を歌ったならば共感を得るのだった。それが「ライトヴァース」ということだった。そもそもW・H・オーデンの詩論から来ているのだ。
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 俵万智
俵万智の口語は定型に収まっているからいいという佐佐木幸綱の批評だが、そのテクニックに句跨りや前衛短歌の本歌取りがあった。この歌も寺山修司を思い出させる。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
思い出の
ひとつのようで
そのままにしておく
麦わら帽子のへこみ
文意で切るとこんな感じか。定型らしくも読めるが俵万智のリズムがあるのだろう。また俵万智は口語の歌だけではなく、文語も、文語口語交じりの歌もある。『サラダ記念日』では文語90、口語230、文語口語混合130あり、俵万智は以後、文語口語混合の歌を多く作っているという。つまり、文語なら文語だけとか口語なら口語だけなんていうのは保守的な歌人だけで、歌いたいように歌う、作りやすいように作るというのが本心ではないか?短歌をはじめる人は最初は誰でも口語にしようと思うのだが定型にこだわるうちに文語に慣れて(勉強して)いく。俵万智も自分の短歌は平井弘の影響を受けていると述べる。
「寒いね」と話かければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
俵万智の短歌はリフレインを多用する。上の歌では会話のリフレインを効果的につかっている。最初は「寒い」挨拶程度なのだが、その返事としての「寒いね」は共感を示す。そしてそうした内輪世界の安心感だろうか。リフレインは読みにくい歌を読みやすくする。またその言葉がキーワードと示すことで理解を得やすくなる。
また俵万智の歌は大きなテーマというよりも軽い現代人の気持ちを歌い、のちにそれが主題化されていく。「前衛短歌」の衰退。基本的に俵万智は快のポジティブな歌だが、同じ世代の穂村弘は不快さを歌う。そうした80年代はバブル時代の「欲望の肯定」に向かい、「大きな物語」は敬遠されていく。ただそれらの歌は消滅したわけではなく結社や大学という場所で歌われ続けた。それが二極化として分断していくのか。
文芸選評
短歌 テーマ「穴」
毎週土曜日にお送りしている『文芸選評』。今回は短歌で、テーマは「穴」。選者は歌人・永井祐さん。司会は石井かおるアナウンサーです。
永井祐は「ゆるふわ短歌」ということだった。とりあえず一首。
すっぽりとはまった穴の波のおと浮輪の中でドーナツを食う やどかり
「ゆるふわ接続」とは句と句をゆるく接続という。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
俵万智のパクリみたいな短歌だ。俵万智とは別の方向に行くというような。
白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 永井祐
行為が空振りに終わり浮遊してしまったものをなんとかしようとする。無目的性みたいなことか?口語短歌は定点の今がない。漂う感じなのか。