戦後の酔っ払い詩人
『黒田三郎詩集』 (現代詩文庫)
酔っ払い詩人のノスタルジーを感じてしまい読みきれなかった。自分ひとりで酔っ払うならいいが妻子を犠牲にして、それで詩を書いて罪滅ぼししているような。今の時代ではまず読まれないだろうと思う。詩人になる前に酒を止めてくれ。エッセイとか説教臭いノスタルジーを感じる。酒を飲まないと大きなことを言えない親父を想像してしまう。反面教師なのか?
『黒田三郎詩集』(現代詩文庫)から「道」。現代詩の道のりも迷子状態で、とりあえず(現代詩文庫)から読んでいけばいいのかと。最初に「荒地」派をやろうと思った。
短い詩だけど、これはなかなか方向性としてはいいのではないか。シュルレアリスムにかぶれて迷子になるところだったが、なるほど「僕の部屋に通じているだけの」道なのか?多分、これも先行する道があったのだと思う。
それは高村光太郎「道程」ではないだろうか?「僕の後ろに道は出來る」という童貞青年っぽい道ね。多分、そのアンチなのではないか?
黒田三郎の道に反することは、高村光太郎の道に賛同することなのか。詩人の分かれ道。どっちも行けないで、第三の道はないのか?
まず「美しい叔母様の家へゆく道」が間違って「ナジャ」の道へ迷い込んでしまったのだ。「海へ」行く道も遠いのだ。刑務所も精神病院も行きたくないと思えば引きこもるしかないのであろうか?どうせ「僕の部屋に通じている」道ならば。ここで悪魔の囁きなんだ。「きみの部屋に地下道を作ればいいのではないか?深層心理という奴だよ」と。このディオニソスが!
でもとりあえず外に出ていかねば今日の食料もなかった、ということなんだが。ブルトンは労働よりも自由を讃歌したのだが、生活は秘密主義で詩とは別のものとしたという。シュルレアリスム(シュークリーム)の甘い罠か。シュープリームスの模倣は日本ではキャンディーズになるのだった。ミキちゃんという一番目立たない子がセンターになったキャンディーズの「罠」が好き。「しくじり先生の歌」なのか?
黒田三郎「一枚の木葉のように」
『黒田三郎詩集』(現代詩文庫)から「一枚の木葉のように」。黒田三郎の詩は現実の自分自身を鞭打って嘆くのだ。それは時代の社会への反抗として豊穣の生活に対して貧困を読む。6-70年代はまだそうした詩が読まれていた。やっぱその辺りの出自は「荒地」派なのだろうか?
どうしようもない詩人だと思うのだが。ふと高層マンションの窓明かりを見てそこに人は幸福に暮らしているのかと思う。竹中優子『冬が終わるとき』の中に詩で「 攫 」の中でベランダに佇む人が出てくる。川で佇む二人(恋人?と語り手)を見ているのだが、「方丈記」の世界で「ゆく川の流れは絶えずして」なのだから昔も今もそういう人は一定数いるのだろう。その詩は彼女(語り手)が自殺しなかったことで終わる。彼女は新しい生活を掴んで洗濯物を干している。そのよれた白いTシャツは男のものだろうか?そう言えば黒田三郎にも「洗濯」という詩があった。どうしようもない男の詩なんだけれども。
「妻子の明日の衣食のことを」考えるのは贅沢すぎると思ってしまうのは、それならば妻子など持たずに一人で生きていけと思う。それで説教じみた詩を読まれされてもと思うのだが、妻子を得るのも欲望であり、欲望を諦念出来ない身ならば仕方がないのだと思う。竹中優子『冬が終わるとき』の詩もそういうものだろう。
なんかそのノスタルジー観が嫌なんだ。パチンコですってしまった行為をしながら反省する。どうしようもない男の詩だと思うのだがかつてのわたしもそうだったのかもしれない。
この部分が好きなのはことばの世界に溺れているからだろうか。今だとネットのことば。しかし、それは否定的に使われていた。
こうして詩を書くのもことばのみだと思うのだ。飢えたこころ(欠損)を埋めるためことばなのである。そこにノスタルジーの恋バナが咲こうとそれが妄想だろうが、パチンコをやるより生産的だろうと考えているのかもしれない。無産階級なのだ。無産階級の夢なのだ。
こういうのが胡散臭いと思ってしまうのは結局詩を売って稼いでいるではないか?それでも生活臭を求めているのだ。本心はそっちにあると思う。
結局、そういう道を望んでいるとしか思えないのは、そうした歌に対するあこがれがあるからなのだろうか?浅川マキ「裏窓」を聴きたくなる。
黒田三郎「賭け」
『黒田三郎詩集』(現代詩文庫)ではなく大岡信『現代詩の鑑賞101』からで、アンソロジーなので一人の詩人ではなく様々な詩人が掲載されているのだ。その中の解説もなかなか面白い。この詩は黒田三郎が結婚で妻を得たときの詩なのである。それは恋愛詩と言われるものだと言うがいまとは随分と違うのだ。まず現代ではこういう詩を書けないだろうと思うのだった。
この出だしだけでふざけるなと思ってしまう。五百万円の持参金がどのぐらいかわからないがピアノが買え、飲んだくれでいられるのだ。これは恋というより甘えそのものでないか?何がカーテンの陰で接吻してだ!こんな詩を読まされて「それだけのこと」と開き直る身分になってみたいものである。
『黒田三郎詩集』のあとがきで酔っ払った黒田三郎を奥さんが白い車で向かいにくるそうなんである。いい身分だよな。それを救急車とか言っているんだから。
それでこの親父は美意識がどうのと説教するのだった。こういう親父は確かによくいると思う。彼らはノスタルジーに憑かれてそれをもう一度と思っているのだ。
エッセイでは谷川俊太郎を否定するのだが、それは流行歌じみた詩を書いたりしてマスメディアに魂を売っているということなのだが、流行歌でないにしても自分の詩だって歌われていて、それが本人がどう思っているのかわからないが、少なくとも谷川俊太郎を否定するには駄目すぎるだろう。
このへんの態度がどうも駄目だった。それで逃避したりしているのだ。まあ、そういう詩を書いたり発言をしていたら雲隠れもしたくなると思う。その弱さだけは共感できるかもしれない。
この少女が持参金付きの娘なのか?完全にお惚気じゃないか。お前ら羨ましいだろうというような。
もう親父の自慢話しかないな。何が破滅なんだ。最初から賞賛があったんだろうが。こういう詩が持て囃された時代があったのか。今ではこういう詩は読まれんだろう。夢を与えるにしても、出来過ぎ君だった。こんなことはまず私らには起きない。