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鴨鳴くや名もなき川に投壜通信

昨日帰ってインスタントラーメンを食べようと思ってパソコンのある机に運んだときにすっ転んでラーメン爺(小池さん状態)になったのだが、そのことがショックだったのか、もう何をする気力もなく寝た。そして腰が痛いと思いながら目覚め、夢を見たのだが、石川啄木とジョギングした人がジョギングしようと言うのだった。その記録が残っていてオリンピックの年に、ランナーとして復帰しようかと考えたらしく、啄木と最初に走ったときからの記録の平均速度を出したら(前の東京オリンピックなのか?)、ぎりぎり予選タイムだったという話なのだが、もう年齢も年齢だし、これから還暦過ぎまでランナーでいたいと時速6㌔(調べたらウォーキングの速さだった)に落として走ったという逸話で、その人が一緒に走ろう、という前向きの夢を見たのだ。

風呂ラジオ。「高橋源一郎の飛ぶ教室」。大友良英がゲストで去年の年末もでたとか。去年は安田南の本の紹介をして、安田南がまだ生きているということだった。

その前のイントロ枕話は、トニー・ベネットとレディ・ガガの「ラブ・フォー・セール」を歌った最後の動画の話。当時のベネットはアルツハイマーでデュエットというアルバムで競演したガガがベネットとの友情を示したものだという。ベネットはボケ老人なのだが、歌を唄うときは意識が歌手に戻っているということだった。

安田南のライブラリーはあるのか?日記のアーカイブがあると思ったが出てこない。たぶん聴いたと思うのだが。

アーカイブと言えばこの日記もアーカイブになっている。でもそれはここの場所がある限りにおいて、そうした記録は残るのだ。それは死んだあとでもということなのだある。以前「投壜通信」の話をしたと思うのだが昨日図書館で伊藤潤一郎『誰でもよいあなた』という本が「投壜通信」の本で、この記事もそういう「投壜通信」なんだと思って、それを誰に宛てて書いているのかというと未来の「あなた」というツェランの言葉を引用しているのだが、ここにも出てきた。

つまり詩はそういうものだと言うのだった。そしてデリダのアーカイブの話はメモ帳とかなんでも書き言葉は保存しておくという話で、そういうことはしないのだけど、自分の書いたものだけは死んだあとにも残っているもんだと思ったのだ。ただそれも数ヶ月かもしれないが。そんなことを思って日記を書いているという話で、孤独老人の手記としては面白いと思うのだがどうなんだろう。

それでホント昔に小説を書こうと思った時期があって、タイトルが『森永LOVE』という。まだ「森永LOVE」が「バーガー・キング」に乗っ取られる前の話で、偶然「森永LOVE」で待ち合わせした女の子と出会って別れる記録を女の子が残したメモ帳とか、ようするにブルトン『ナジャ』の模倣なのだが、暗礁に乗り上げてしまった。その小説を書き始めた時に、それがいいと言ってくれた人がいたので、同棲して物語よりも現実優先となってしまったのだが、年中「森永LOVE」の話ばかりするので嫌気がさしたのかもかもしれない。今日の「シン・現代詩レッスン」は「森永LOVE」の詩にしようかと思う。

そうだ、昨日11月の詩をまとめて『現代詩手帖』に出そうかと考えて、原稿用紙に書いていたのだが、無駄な言葉が多く、また一つの作品では短いのである程度テーマに沿ったものをまとめた方がいいと思った。現代詩は穴場だと思っていたのだが、投稿作を見るとかなり凹むのだ。

まあ、いろいろ試みているのも「投壜通信」ということで、今日の一句。

鴨鳴くや名もなき川に投壜通信 宿仮

ほんとは名前のある川なんだが、毎日通り過ぎる川(時間)ということも含めて。今日は無事に朝飯を運べたので、これから朝食。そのあとにいろいろ書くと思う(一時休憩)。

読書メーターで2024年度おすすめ本棚のトピックがあったので、掲載しておく。あと、ハン・ガンのノーベル賞のスピーチの記事。

2024年おすすめランキング

ハン・ガン「金の糸」という言葉はジョージア映画祭のラナ・ゴゴベリゼ監督『金の糸』を観たばかりで、この「金の糸」は割れた陶器を金で紡む、金継ぎという伝統ある修復法だった。

昨日ジョージア映画祭の『青い山 - 本当らしくない本当の話』を観たのだ。ジョージアになる前のグルジア共和国(もう名前も出てこない)時代の映画で崩壊していく出版社(政府機関かと思った)を描くカフカの『訴訟』的な映画で、なかなか意思決定ができないまま、新人作家は作品を出版して欲しいと編集長に原稿を手渡すドタバタ喜劇だった。それほどの映画でもないと思ったが(ドリフのコントみたいな)、時期的にソ連の解体を描いた映画なので高評価だったのだろう。そう言えばジョージアではウクライナみたいなことになろうとしていた。世界情勢も変化が激しく、何があるかわからないな。激動の時代なのは確かなのだろう。「ジョージア映画祭」でも貰ったラナ・ゴゴベリゼ監督のメッセージで今、大変なこと起きているけどわたしたちは負けないとか書いてあった。

今日の一首。

ジョージアの朝の珈琲飲みながらひび割れ世界修復急ぐ 宿仮

今日三回目の風呂。熱を蓄えてないとすぐにダウンしてしまうから風呂に入って体を温める。エネルギー保存の法則だが、効率悪いよな。自家発電じゃないし。日記もだらだら切れ目なく続くのはエネルギーのムダ遣いなのかもしれない。

二回目の風呂ラジオでサンキュータツオの国語辞書の話題で「恙無く」を紹介していた。ツツガムシというダニが持っている病気にかかると死ぬこともあるようなつつが虫病にかからないで平穏に過ごせるようにという言葉だという。今はあまり使わないのはツツガムシも見ないからだろうか?たまにマダニに刺されて死んだというニュースがあるが、マダニ無くとはいわない。

ツツガがもともと病のことで、ツツガ(病)虫ということなのだそうだ。ツツガが先にあった言葉だった。語源的に見るといろいろありそうだ。

恙無くは行かない日記の話だった。こうして次々の話題を追加して日付とか関係ない長文の日記とかどうなんだろうか?

また別の話題に飛ぶが、その番組で若者言葉で「世界線」というのが出てきた。全く知らなかった。並行世界のことらしいのだが、別の世界に行くみたいな使われ方なのか?

「世界線」じゃなく「世界系」は流行ったなと思ったのだが、それもアニメからだった。若者言葉は別にいいんだけど、世界線とか言われると国境とか連想しそうだった。

世界系は閉じた世界なのだろうか?また風呂ラジオの話題だが、フォーレ百周年とかで(ラフォーレとかじゃなくクラシックの作曲家)で「レクイエム」の話。レクイエムは通常ラテン語が使われてそれも出典が聖書なのか決まっているらしいのだが、フォーレ「レクイエム」では通常のレクイエムにはない歌詞があり、それはフォーレが個人的に「レクイエム」というファンタジー世界を作りたかったという話だった。「三大レクイエム」ではやっぱモーツァルトが好きだった。フォーレは一番聞かないかもしれないな。

急にクリスマスの話だが、クリスマスの教会音楽はわりと好きで良くこの時期に聴いたりする。先日もガーディナーのバッハの曲を聴いていたのだった。

教会音楽に限らずクリスマスメロディとして「くるみ割りの人形」の「金平糖の踊り」が好きなのだが、チェレスタという楽器のオルゴールみたいな音色はハマる。デューク・ピアソンの「ハッシャバイ」もいい。

また起きた。この日記は料理の鉄人、道場六三郎の料理のアイデアであ「お品書き」に相当するのだった。昨日のことも必要だが今日のために何ができるかという日記の方向性。書くということに方向性を与えるとか、『誰でもよいあなた』に書いてあったと思う。それは思想性みたいなことかな。

今日は「シン・現代詩レッスン」をやる。現代詩の試み。そして、ほぼ出来上がっている「シン・俳句レッスン」は金子淘汰の『短詩系文学論』だった。金子淘汰も方向性みたいなことを書いていた。それは社会性俳句について「態度としての問題である」ということ。それがマルキシズム的に捉えられたのだが、金子淘汰が言うのは表現論としての「態度」ということ。

それは素材のリアリズムという「もの」だけを見ればいいというのではなく、作家的態度として実存主義的な問いとしての投げかけが表現論として絶えず改革を生みだすということ。それは芭蕉しかり、子規しかりなのである。

正岡子規が芭蕉を否定して与謝野蕪村の写生を取り入れたのは、芭蕉の改革者としての偉大さを認めた上でそれしか道がないのかという模索だった。芭蕉を否定したという虚子派の論調が写生第一主義みたいになっていく。それは子規が芭蕉ばかりよいしょする芭蕉俳句(蕉風俳句)だけになってしまうということで蕪村の道を示したのである。そして今度は写生だけが王道のような虚子派がお山の大将なのだ。そういうところからは革命は生まれない。

革命と書いたがそれほど大げさではなく新しい模索する俳句という姿かと思う。それが「態度としての問題である」という個人個人で方向性を決めていく。スタイルとしてそうした態度がないと大勢に巻かれろ的な主体性がなく、強いものに迎合していく翼賛体制になっていくのだと思う。

何回目かの風呂(五回ぐらいか?)風呂ラジオは「漢詩を読む」で「冬至」だった。杜甫に「冬至」という漢詩があるぐらい中国でも何かを祝うのだという。それは「冬至」が昼間が最も短く夜が長い、しかしこの「冬至」を境に春にはるという。だから「冬至」の漢詩も少しでも明るさを見出そうとするのだ。でも年寄の漢詩が多いかな。

杜甫は暗いな。他の人はまあ明るい感じだった。冬至になって柚子湯に入るとかかぼちゃを食う習慣はないようだ。中国では何をするんだろう?そうか。新年を迎えるみたいなんだな。とりあえず酒でも飲んでおく。今日の一句。

かさかさのかゆみ快感冬至来る 宿仮

乾燥肌でかゆいのだが、かきむしるとそれが快感になるというマゾっけの一句。漢詩で吉祥寺にお参りするというのがあった。吉祥天女だろうか?芸術の女神様。「ガラスの仮面」で先生が舞うのだった。

そうだ。月影先生だった。紅天女は「吉祥天女」だろう。春の訪れなんだな。クリスマスだったら「金平糖の踊り」か。お菓子を食べるみたいだから近いかもしれない。今日の一首。

月影の冬至過ぎれば春となり吉祥天女舞ふ金平糖の踊り やどかり


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