シン・現代詩レッスン35
昨日の「シン・現代詩レッスン」で「パターソン」の詩人から(名前が覚えられないのは、長いからかも知れない。それに、ウィリアムとくれば、ウィリアム・ギブソンがいるではないか?)ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『ちょっと一言』で詩は毎日作った方がいいということを発見したのだった。
ただ詩を漠然に書けと一言っても書けるものではない。そこで和歌の本歌取りをヒントに詩の本歌取りを狙ってそれらしき詩を書いているのだった。今日は昨日『アメリカ詩を読む』が終わったので、続けて阿部公彦『詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること』がマニュアル本としていいのではないかと選定した。阿部公彦は英文学の評論家で、『源氏物語 A・ウェイリー版4』で解説を書いている。また『英詩のわかり方』という本も過去に借りたことがあり、よく名前を目にするのだった。
そんなことから詩のマニュアル本として『詩的思考のめざめ』を借りたのかもしれなかった。
彼はこの本は詩の入門書ではないと書いているのだが、そう書きながらマニュアル本の体裁で題名からして、『詩的思考のめざめ』とあるし目次を見てみるとⅠ「日常にも詩は"起きている"──生活編」として5つの要素を上げているのだが、それがもうマニュアルになっているようなのである。その5つは「名前を付ける」「声が聞こえてくる」「言葉をならべる」「黙る」「恥じる」とあるのだ。最後に二つはまだ出来てないようだが、最初の3つは出来ているような気がする。取り上げる作家も歌謡曲の作詞から小説家までと詩人だけに限定されないところがいいと思った。変に現代詩や詩人ばかりだとそれ系の詩に限定されてしまうように感じるから。今日は一番最初の「名前を付ける」から金子光晴の「おっとせい」からにしようか?
名前が実は苦手なんだと知ったのは、このnoteでもどこでも名前の誤字を多く詩的されるのだった。まず言葉が完璧に覚えられない。だから自分は二世なのかもしれないと思っている。二世の人の言語感覚が好きなのかもしれない。言葉は生物で変化をするものだと思っている。言葉が固定されてしまうのはすでに死んだ言葉で中身は空っぽかもしれない。
そういう言葉に対する疑問を持つのが詩人の第一歩だと思うのだ。だから自分に合う言葉を探す。そのテクニックとして、最近覚えたのが象徴ということだった。金子光晴『おっとせい』もそういう象徴詩のような気がする。
だいたい動物を出して比喩的に騙るのは象徴詩だと思っている。最近は「野毛のライオン」がテーマとなっているので、今日もそのパターンで。金子光晴は「おっとせい」のネガティブさを上げていた。普通その動物を上げるならポジティブさを探すべきだと思うのだが、ネガティブに語れることこそ、そのものを愛しているのかもしれない。逆の愛情があるのが詩人だ。
まず息の臭さは、生きている証拠なのだろう。香水のような匂いを漂わせていたら凡庸である。
背中を語るというのはやっぱ愛情なのだろうな。なかなか後ろ姿まで見ないのは、人なのではないのか?後ろ姿を見る(見守る感じがして)親しさがあるように思える。そして、そのネガティブさは自身の人生のようでもある。そんなところに親しさを感じるのかもしれない。
「土嚢のやうな」という比喩は奥深い感じだ。土に対する人間の憧れ。
それ意外はとりつくろうものがないような非難のような言葉に思えるが、どこかユーモアが感じられるのは最後の締めの言葉「おほきな陰嚢」かもしれない。それはネガティブさだけではなかった。
次のスタンザでは「おっとせい」らしからぬ描写になっている。それは「にんげん」という題でもおかしくないような。そして、自身も「おっとせい」のようみ揉まれながらも一人で映画館に入って映画を見るのである。「アラスカのやうに淋しかった」というノスタルジーは「おっとせい」の夢だろうか?古い映画だと、『極北のナヌーク』かもしれない。おっとせいらしきものが出てきたような。
「俗衆」は「大衆」だろう。そういう大衆に反感を持っているのか?
ヴォルテールは別に好きじゃない、フーゴー・グロチウスはどんな人物か知らない。むしろ大衆側かもしれなかった。
最後は人間を非難しているのだが、ほとんどそう思うけど「おっとせい」はどこに行った。それはラストのスタンザであきらかにされる。「おっとせいが嫌いなおっとせい」で反対を向いている孤独なおっとせいということだった。
最後の言葉が、
とカギ括弧で閉じられているのは檻の中なのか?