シン・短歌レッス142
『王朝百首』
塚本邦雄『王朝百首』は藤原定家『百人一首』を批評しながら、結局『百人一首』の本歌取りのような本になってしまった。藤原定家に対する批評は塚本邦雄にも当てはまっていくわけで、彼の権威性を誰も問えなかった不幸があるのではないか?それは塚本邦雄が言う美の世界が彼岸(死)の中にしかなく、そのことが今を生きている我々にどう関係してくるのかと思った。その構造というのが四季分けで、六歌仙を選定し、『古今集』に倣った『新古今集』讃歌であり、その特徴である儚さや雅さがすでに無きもの(死)であるという美に他ならない。そこに届かない思いなのだろうか?
源姓だから天皇家の末裔なのか?ここに描かれているのは『源氏物語』の裏返しの世界であり網代で夏の涼を求める情景から月清みの「氷」の世界になっている。
藤原一族でありながら藤原定家という権威のまえでは一介の歌人にしか過ぎないということだろうか?恋歌なのだが、藤原定家への恨み節とも読めた。
藤原有家も一世一代の名歌と言われる恋歌なのだが、何故か藤原定家の影がチラつくように読める。有家は六条家の当主であるのだ。その反対には九条家の藤原定家がいるのだった。
坊主和歌は好きなのだが、顕昭法師も六条家の論客だったという。純白の鷹が六条家の末期の姿だったのだろうか?
守覚法親王は式子内親王と異母姉弟であり、先の顕昭法師の六条家を支援していたという。ここに来て六条家の衰退は冬と重ね合わされるのは偶然だろうか?
藤原良道は夭折した義経の兄であり、藤原良経は塚本が贔屓する歌人であり六歌仙に選ばれていた。その義経が夭折した兄との夢の中の対話の物語、義経は兄のために「花月百首」を詠んだという。「花月百首」は藤原定家と慈円を誘って表向きは西行追慕だと思ったのだが藤原良経は違ったということなのか?ちなみに藤原良経は九条家の当主。
後鳥羽院が下野したのかと思ったらその女房であるという。それが小町の歌よりも絶望度が際立つとされる。
「誘わぬ水」という逆境の歌なのか。小野小町の時代から鎌倉の滅びの時代の代表歌か。
塚本邦雄がイメージする「源実朝」は正岡子規の「もののふ」よりも「宮廷歌人(武人)」の「滅び」姿であろうか。
藤原雅経もよくわからないが『新古今集」選者の一人であったという。
源家長と歌人たち―新古今和歌集
小川剛生『「和歌所」の鎌倉時代: 勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか』から「源家長と歌人たち―新古今和歌集」。「和歌所」は勅撰集を編纂するために設けられた宮廷内の組織の一つであるのだが、『古今集』の時代「和歌所」はそれほど権威も与えられず、紀貫之も官位は低いままであったのだが、『新古今集』の時代になると殿上人級の扱いで、貴族の中の貴族である。殿上人でなければ人にあらずとは『平家物語』に書かれていたと思う。
そういう組織が『新古今集』の時代から作られ権威を持つと和歌は政治的にも重要な力になってくるのだった。それを作らせたのが後鳥羽院であり、院であることは天皇より身軽で自由に振る舞えたということから、和歌に優れた歌人を取り入れたのである。源家長はそうした「和歌所」の長ではあるのだが後鳥羽院ヨイショ官僚であったので、しばしば藤原定家と反目するようになる(それは源家長というよりも定家と後鳥羽上皇の間ということなのだが)。
要するに定家『明月記』のような殿上人日記(それは後世の子孫に伝えるための家伝であった)を源家長も残しており、それによって定家と後鳥羽院の反目がわかるというのだった。家長も後世のためにそうした日記を残したのだが孫の代で断絶していた。やはりこのへんも時の権力者次第ということなのか?
後鳥羽院が『古今集』に熱を上げすぎて、選者である者の頭越しに編集に手を出してきたのが、定家の不満であったのだ。それはすでに選も終わっているのに、古人ばかりで新しい歌人がいないとかで入れ替えをする。極端な人だとすでに入選が決まっていたのに死んでしまったために外されるとか。勅撰集の名誉は個人だけのものではなく、家の権威の問題でもあったのだ。だから定家が『新古今集』で外されたが次の勅撰集に入れると息子から感謝されたという話も出てくる。なによりも面白くなかったのは、古人の名歌を後鳥羽院の好みで外され、その取り巻きを入れられるのだった。
そうした定家と後鳥羽院の反目はエスカレートして、ついに後鳥羽院批判まで出たので定家は「和歌所」を謹慎処分を受けることになっていく。さらに後鳥羽院が隠岐に流され、そこで後鳥羽院が編集する『新古今集』が作られたのだ(隠岐本)。それは後鳥羽院のお山の大将である歌集だと思うのだが、何故か後世後鳥羽院の方が定家よりも人気があるような。
テーマ「表現」「愛の表現/ 自我の表現」
岡井隆編『短歌と日本人VII 短歌の創造力と象徴性』から「テーマIII「表現」〈報告・見田宗介「愛の表現/ 自我の表現」〉
全共闘世代の歌人・道浦母都子の短歌。
密かに愛唱せざる「無援の抒情」という一つの時代の歌物語として記憶されたという。しかし、それ以後も歌人は詠うのであり、個人の物語は愛の物語として続いていくのである。
その一方で愛の敗残者となる者の歌も鮮明に残されてた。
それはマンガの日常性とつながっていくものだという(岡崎京子あたりのマンガを指しているのではないか?)
その人生の優等生的歌人が栗木京子だという。
マルクス主義・実存主義・構造主義・ポスト構造主義と重ねて、自身の歌をさぐるという林あまりは女の身体を詠う。
ただ林あまりはクリスチャンとして、教会の教師もしているのだった。それは彼女自身の身体というよりは身代わりの身体なのかもしれない。彼女の歌で有名なのがなんと行っても坂本冬美に託した『夜桜お七』なのであるから。
それは演じることを学んだ女性性かもしれない。その最先端(80年代)が俵万智だったのだ。
吾(あ)という古風な女性を演じながら君といる空間は映画のワンシーンのように感じる。「吾(あ)と君」という表現がおかしいというが昔と今の折衷である表現は文法のコードを乗り越えていくものなのかもしれない。これが90年代の感覚として一般化していくのである。フェミニズムから「女うた」へ。