「昭和俳句史」はここから始まる
『昭和俳句の検証』川名大
角川から出ている『昭和俳句史』の前史であり、戦時の俳句史があるので、むしろこっちの方が重要な本ではないのか(「新興俳句弾圧事件」についても評論されている)。角川の『昭和俳句史』は戦後からなので、俳句の戦時翼賛体制も伺うことが出来なかった。
「モダン都市の俳句」
関東大震災後、モダン都市の俳句。
イメージによる内面世界を表現した俳句。
高屋窓秋のこの句が好きだった。
「誤字」は誤字だろう。器はない。扇風機だろうと思っていたら「扇風器」でもけっこう出ていた。山口誓子は都会派俳句得意だよな。
「ホトトギス」にもモダン都市俳句があった。
小野蕪子もわけがわからない前衛俳句っぽいのを作っていた時代だった。
橋本夢道の俳句は俳句のイメージを超えているな。
短歌と言ってもいいぐらいの字余りだった。この時代あまり定型は気にしなかったのか?これは散文だ。
新興俳句運動の勃興
水原秋桜子が「馬酔木」を創刊して「ホトトギス」を離脱する。
「馬酔木」は清新な抒情俳句。そんな中から高屋窓秋の「白」をモチーフとした俳句が生まれた。
それを受けての篠原鳳作の碧の俳句。
篠原鳳作は篠原雲彦と名乗っていた。
「ほととぎす」では星野立子と中村汀女の時代。星野立子はモダニズムを感じる。
スコット沼蘋女(しょうひんじょ)俳号と俳句のインパクトが強い。
この時期(昭和7・8年)の名句。
無季新興俳句の成熟
三橋鷹女。4Tの時代
プロレタリア俳句。軍国化の中の閉鎖的社会。
「ホトトギス」系の日常詠
この句は好きかも。『罪と罰』がいいのか?
京極杞陽は初めて知るが面白い。
京大俳句弾圧事件前
藤木清子の戦火想望俳句(女性では極めてまれ)。
「聖戦俳句」
ただ敗戦後にGHQの検閲にあって句としてはあまり残っていないという。戦時の空白期の中、印象深い句も残っている。
敗戦後の新興俳句系の復活
次世代の作家金子兜太の戦時句。
「京大俳句事件」
平田青馬特高スパイ説はの出どころは西東三鬼であるようなのだが、それは特高の取調官からの又聞きであり確証あるものではなかった。仮にその通りだとしても自ら進んでスパイになったのかどうかもわからず、脅迫されたのかもしれなかった。
平田青馬の書簡には、当時スパイと噂されているからそれを否定してくれるように同人宛に出した手紙がある。それによると関西方面への天皇の行幸があり、京大や関西言論界に対しての風当たりが強かったのが伺われる。京大俳句の弾圧もそれ故ではないかという正しい判断を下している。
昭和俳句「知られざる新興俳句の女性俳人たち」
川名大『昭和俳句の検証』「知られざる新興俳句の女性俳人たち」から。「新興俳句」で女性俳句を紹介した本なんて読んだことはなかったのだが、東鷹女・藤木清子・すゞのみぐさ女・竹下しづの女・中村節子・丹羽信子・志波汀子・坂井道子・古家和琴を紹介している。東鷹女(三橋鷹女)とかは「新興俳句」系であり、けっして「新興俳句」の俳人ではないのだが。
再三取り上げるがこれは昼顔を見るたびに思い出す句だった。
鷹女の出現は短歌の与謝野晶子の出現に似ているという。浪漫主義的幻想の趣味の中に確かなる俳句は個性的であり情熱的であり感情的であり愛欲的である。
藤木清子は宇多喜代子が取り上げていた本を読んだことがある。
偶然か?そのときも中上健次「夏芙蓉」を取り上げていた。
藤木清子は数少ないアウトサイダー的な銃後俳句を仕立てた俳人であり、それは戦時に寡婦となり、戦時に於いて、部外者の不要者(余計者意識という厭世観が交差した感情)という厳しい中での境涯俳句であった。
すゞのみぐさ女
すゞのみぐさ女は戦時に夫を出征させるというそれまでモダニズム俳人だった人が一気に影を帯びた人になってしまう境涯俳句なのだという。「新興俳句」の人らしく、連作句が多いという。
俳句の連句より現代詩っぽいな。近代詩か?「出征」即「葬式」みたいな菊の花だ。その白菊の虚無感。見事すぎる。
竹下しづの女
竹下しづの女も東鷹女と同じで新興俳句とは違うのだが、ただそのモデルというような作品を残した。
「須可捨焉乎(すてつちまをか)」が漢詩体なのだが口語になっているというそのど迫力。これが「ホトトギス」初投稿だったが、「ホトトギス」流の俳句コードに悩んで句作を中断。「天の川」の吉岡禅寺洞との恋の破綻。「天の川」は新興俳句系の雑誌だったいうから、それで新興俳句系とは距離を置くようになったのか?竹下しづの女の特徴は漢詩の訓読体を多用する教養主義と女性ならではの感情が文法を無視しているという。「須可捨焉乎」も正しい漢文ではなく、和漢折衷の表現なのだ。「乎」が反語表現で捨てるに捨てられぬ母の心情を詠んでいるのである。竹下しづの女は教師として自立した女性でそれまでの寡婦の俳人とは俳句の違いを見せる。
この句には戦争肯定とは違うが人生を肯定しようとする生き方がある。そこに寡婦の俳句とは違った婦人会的なものがあるのかもしれない。この時代国民感情に不同調することは不可能だったのである。
中村節子
藤木清子のライバルと見られた新興俳句系の俳人。タイピストとして新聞社勤務で自立したキャリアウーマンだったようである。
伝統俳句を抜けきれずに新興俳句系のモダニズムが折衷したような句であった。「鶏頭陣」ではそんな句風か性格のせいか、あまり歓迎されなかったという。興味深いのは同じ結社の東鷹女とのライバル関係である。それはシスターフッド的な協調関係とはならず排除関係になってしまったことだった。
鷹女のこれほどの攻撃性はなんだろうか?鷹女の師系筋に小野蕪子がいたこと。節女は小野蕪子からは歓迎されなかったのだろうと考えてしまう。つまり当時の男尊女卑の結社のなかでの女性の位置は節女タイプの方が警戒されたのだと思う。小野蕪子の政治性は後の新興俳句弾圧運動になっていく。
そして「鶏頭陣」を去り「旗艦」に藤木清子と共に加わる。その時に俳号を節女から節子に変えていた。
「旗艦」での節子はパッとしなかったようだ。桂信子の証言によると危険分子だから近づくなと言われたという。それは小野蕪子が送ったスパイであるという意味だった。
藤木清子に捧げた句が哀しい末期のように思える。
丹羽信子(桂信子)
「旗艦」で藤木清子が華々しく活躍していた頃の「旗艦」に入ってきた最後の世代という。
「旗艦」デビュー作。
初初しい感じか?
新妻の初々しい心情を詠んだものでこの時期の暗い藤木清子の作風とは違っていた。
信子が師事していたのが日野草城ということだった。信子は新妻でありながら戦時は凛とした一本筋が通っている句を詠んだという。
丹羽信子のピュアな女性性はこの時期には新鮮だったのかもしれない。
志波汀子
「京大俳句」で注目すべき三人の女性俳人として、藤木清子、東鷹女、志波汀子と挙げられたが今はほとんど知られていない。母性愛を強く詠った俳句を詠むが、モダニズム的口語俳句で斬新。今でもこういう俳句は見たことなかった。新興俳句弾圧の犠牲者のように思える。
志波汀子は二十代の若い母親という以外経歴がわかっていない(新興俳句の俳人と結婚した)。「Our Gangいとしご」では「ギャング」という言葉を子供に見立てた生活詠を「子供の言葉」は連作句で、子供の視線から見た母親の姿を詠んで新鮮である。藤木清子、東鷹女と比べて、読者の中に刻まれる詩心の不足だろうか?しかし、その表現行為は今なお新しい俳句だ。
志波汀子は母性俳句だけではなく銃後俳句も詠んでいた。
あまりに感傷的と渡邊白泉から批評された。
三橋鷹女の「年譜」の書き換え
なかなかわかりにくい批評なのだが、三橋鷹女が東鷹女と名乗っていた時期を意図的に外しているのではないかということなのか?
それまでの三橋鷹女は戦争寡婦としてのイメージであり、東鷹女時代は夫の姓を名乗りながら、小野蕪子主催の「鶏頭陣」での活躍、この時代の俳号を東鷹女とした理由を探っているようだ。鷹女は関東大震災時に建物の下敷きになり我が子を抱き続けて耐えていたという逸話があり、それが強烈に母性愛のドラマとして際立ってくるのだが、その以前にの夫の崩壊した(関東大震災ではなく経済的な理由で)医院を再建のために結婚したという。その頃の奮闘ぶりが
それはあたかも俳句にかける情熱と二月の渚を感じる俳句ではあるが、それは実景ではなく、映画の一コマだったことが次の句からわかるという。
つまり鷹女の中にあるナルシズムは実景とは違っているイメージなのであった。この頃に泊まった旅館が鈴木真砂女の実家で、川名大の故郷なのだという。
鷹女というと一人の強い女性をイメージしてしまうが、その側には夫が常にいて、一人息子の出征を共に見送っていた。さらに鷹女が指導した「ゆさわり会」が戦時とされたのを戦後の記憶違いとしている。つまり戦時下の鷹女の経歴を戦後の鷹女の経歴に書き換えているということなのだ。それは東鷹女と名乗っていた時代なのかもしれない。
鈴木真砂女の海の叙情性と飯島晴子の創作過程のエッセイは、俳句は個人の感情の発露から成り立つものであるという。
富澤赤黄男の俳句日記
富澤赤黄男が戦時下に残した日記から「俳句は詩である」という宣言と当時の新興俳句仲間たちの交流の姿や俳句の創作過程の格闘などが知れて面白い。この項だけでも、読む価値があると思える。当時は詩も書いており、詩から俳句に仕立てるという作業もしていた。その時の一句。
富澤赤黄男の俳句はセンチメンタルな感情の発露だった。ただそこに表現の誤魔化し(すり寄り)はないという。花鳥諷詠(ホトトギス)派に対する反抗。
富澤赤黄男と篠原鳳作との関係。篠原鳳作の俳句は無季俳句で詩情溢れる俳句だった。
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