シン・現代詩レッスン94
北村太郎「パスカル」
『新選 北村太郎詩集』から「パスカル」。北村太郎は「パスカル」の詩を二つ(『新選 北村太郎詩集』に掲載された詩だからもっと書いているかもしれない)、エッセイでも「パルカル」について二つ書くほどパスカル好きなのかというとそうでもなく。パスカルの観察眼を問いとして、そんなに堅物でなくてもいいじゃないかというスタイルは前日にやった「石原吉郎」の詩と同じである。
パスカルの警句(アフォリズム、アホリズムって書きそうになる)について、『パンセ』が有名だがその『パンセ』の言葉「人間は考える葦である」とか、多用な解釈の前に逆説的な言葉をはらんで、これは俳句に近いのではないかと思った。「葦」も芽を出すと「葦牙(あしかび)」や「葦の角(あしのつの)」と言った春の季語になるのである。
これではパロディだが、実はパスカルを検索したらパスカルの言葉のパロディも実に多いのである。その代表なのが歌人の『パン屋のパンセ』であろうか?つまりそれは『聖書』と同じように、科学者やキリスト教信者だけの言葉ではないのだった。北村太郎が『パンセ』の言葉に惹かれるのは、詩心を刺激するからだと思う。最初に書かれた「パスカル」という詩は二行連作(絶句というのだろうか?)の形而上学的な言葉に満ちているのだが、それはアンチ・パンセとしての態度であった。
北村太郎の特徴として二人称の「あなた」を使うのは「石原吉郎」でも使っていたことで、これは詩が対話(ダイアローグ)であるということなのかもしれない。
パスカルの言葉(ここでは『パンセ』中心になるが)に反発した詩人でもう一人ボードレールがいた。
パスカルは言った。
そして、ボードレールが言葉を返している。
このパスカルのことは俳人の写生を言っているようだ。客観写生ということだろうか?俳人にも科学者が多いのはパスカルと近い感性なのかもしれない。ただパスカルが美を認めなかったというのは言い過ぎで、むしろ美という概念が美意外を排除するものではなかったのか?
う~ん、木村太郎の批判は形骸化した有季定型派のようにも読めてしまうな。「針金でできている植物」にジャコメッティの彫刻を感じてしまう。超現実主義者なのか?「乾いた草」という批判は言の葉は枯れた草と言えなくもない。
「自然ハ真空ヲ嫌ウ」はパスカルの言葉なのか、ここだけカタカナ混合文になっている。「真理」という言葉も誰に取っての「真理」なんだという問題なのだと思う。パスカルにとってはキリスト教の「真理」であり北村太郎は東洋的なアニミズム世界なのだ。科学論文と祈禱のメロディというのはバッハの音楽を連想させる。
最初のセンテンスは浪漫主義なのだろうか?「下らぬことだ」と言いながらもそれらを求めてしまう欲望があるのだ。人の欲望はわかりにくいもので拘束された方が快感を得るマニアもいるのだった。まあ精神という言葉がその拘束具のような感じなのだが「神の愛」とかもそうだった。そうした快楽は別のものを殺すというのは禁欲が快楽に結びつくのと同じなんだろうか。もしかしてパスカルはSMマスター(師匠)かもしれない。パスカルの葦は鞭なのかもしれない。