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シン・現代詩レッスン77

T・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳


荒地(部分)

クマエで巫女が甕の中にぶらさがっているのを見たが、少年たちが「あんたは何がしたいの」とたずねると、巫女は「死にたいの」だと答えていた。
                     名匠エズラ・バウンドに

1 死者の埋葬

四月はいちばん酷い月、不毛の地から
リラを花咲かせ、追憶と
欲情をつきまぜて、春雨で
無感覚な根をふるい立たせる。

T・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳

『(続続) 鮎川信夫詩集』 (現代詩文庫 )からT・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳。何よりも冒頭の「四月はいちばん酷い月」が有名だった。でも今回注目したのはエピグラフの言葉。普通ここは有名人の言葉とか引用するのだが、これはエリオットの言葉なのか(エリオットはすでに偉大な詩人なのでそれを見越して書いたのか)?「クマエ」はギリシア悲劇の。ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場する「クマエシビュラ巫女)」ということだった。

「アエネーイス」は最初の詩ということらしい。つまり詩が死から始まったということなのかもしれない。
「四月」よりも「十一月」の方が醜い月のように思えるが。十二月になると終末感よりも新しい年を迎える感じになるのだが。クリスマスもあるし。「もういくつ寝るとお正月」の気分なのだ。十一月はただただ虚しい感じがしてしまう。今からそんな気分でどうすんだという気持ちもあるのだが。「四月はいちばん酷い月」とか言っているのは、まだまだ青いよな。それが青春なんだぜ!とハッパをかけたくなる。青春時代は後から思うと懐かしくなるというのは歌にもあるではないか?

欲情しかないというのはそうなのだが、欲情に到る対象がいるのも青春時代なのである。リラの花というのは、どうなんだろう。白菊よりはいいと思うが。

冬はぼくらを温かくしてくれた、忘却の雪で
地上を覆い、乾いた球根で
あわれな 生命 いのちを養いながら。

T・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳

冬のイメージがそういう感じなんだ。雪がめったに降らないからただ空っ風で寒いというイメージしかない。昨日も帰りは木枯らし一号かと思うぐらい寒かった。乾いた球根で「球根爆弾」を連想してしまう。

「はじめてヒヤシンスいただいてから一年たつわね。みんなにヒヤシンス娘っていわれましたわ。」
──でもぼくたちが遅くなってヒヤシンスの庭から戻ってきたとき、
あなたの腕は花いっぱい、髪は濡れており、ぼくときたら
口もきけず、眼はくらみ、行きているのか
死んでいるのか、なにもわからなかった、
光りの中心、沈黙と向かいあって。
海原は荒涼として影もなし。

T・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳

「ヒヤシンス娘」は「ひまわり娘」を思い出す。この辺は懐メロオンパレードだな。「イルカに乗った少年」は出しません。

今日はやりやすいテーマかもしれない。

木枯らし一号

クマエで巫女が甕の中にぶらさがっているのを見たが、少年たちが「あんたは何がしたいの」とたずねると、巫女は「死にたいの」だと答えていた。
                     名匠エズラ・バウンドに

十一月はめげる季節だ
さむらい 月なんて呑気なことを言っているとあっという間に
十二月だ
十二月は姉さんの月

球根栽培しているって近所じゃ噂の
爆弾娘とは姉さんのことさ
白菊が散るときは
ぼくも一緒さ、覚悟は出来ている

「またいつもの与太話かい
時代が違うんだって、それは遠い夢の世界の話
お前がうけなければならないのはロボトミー手術だね
──そうさ、ぼくたちはロボットのように動かされているのさ
運命っていう奴に
ぼくは姉さんの命令よりも運命に従っている
だから自爆テロならさっさとやってしまおうよ
木枯らし一号がやってくる!
冬将軍もやってくる!

やどかりの詩

きみ!偽善家の読者!──わが同類、──わが兄弟よ!

T・S・エリオット「荒地(部分)」鮎川信夫翻訳

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