シン・短歌レッス139
『王朝百首』
「秋の夕暮」とあるから『新古今集』の幽玄の情景なんだと想起する。思い出としての山里の水と月とは?どうやらこれは恋歌で山里の彼女を思っての歌であった。一目惚れだったのだろうか?漢詩に「秋水秋月」とあるのを踏まえているという。清少納言の父ということだった。そうすると『新古今集』以前の歌なのか?
慈円の秋は『新古今集』の幽玄だ。「見はてぬ夢の秋」という鹿も象徴ということだった。幻想の声ということなのか?「鹿の声」だから恋の果てということか?
鹿のしがらみは抜け毛だろう。それが河水の中で荻の散る花と共に滞ている。鹿と荻の組み合わせ。「しがらみ」は鹿が柵を飛び越えてその時に落ちた枝葉だという。全然意味が違ってくるな。強引に女の元へ走った男と散った女の憂き世のはてということか?
「むらさきのほかに出でたる」むらさきの花なのか?薄の色なのか?迷う。多分、前者だと思うが「よその風」はむらさきの花を揺らす風なんだろうが、一緒になびいてしまうということか?藤原輔親は紫式部の時代の歌人。ということはこのむらさきは式部を意識しているのかな?紫式部より優れた歌人であるよとか。
花すすきは最後の花として冬の歌として読まれるのだが、紫式部『源氏物語』でやはりそんな歌があった。
このへんは藤原一族の歌なんだろうか?「秋の霧」。いつまでも明けない暗い人生を語っているという。
この「秋の夕暮」は尼僧になってからの歌だろうか。
「逢坂の関」と出てきたら男女の別れの歌という歌語。
紀貫之の歌と比べて欲しいと病身の藤原公任に評価を委ねたという。
高遠は切り立つ岩に響く馬の足跡、貫之は清水に映る満月だというがこれは題詠だという。実際に馬に乗って実景を詠んだ歌で高遠は自信作であったという。結局二首とも並べて『拾遺和歌集』に掲載された。
「荻の花」は散る姿を詠んだ歌で、夕暮まであったが月が出る頃には儚く散ってしまうという歌。実朝の「万葉調」とはいい難い「新古今調」か?塚本邦雄は早熟の天才歌人という位置づけ。あたかも二十六歳の命を予言するような歌だという。
『後撰和歌集』に詠み人知らずの「世の中」の歌があり、それの相聞歌だという。秋の風の悲しき相聞歌。
「菊の上の露」が示す通りに平安歌壇の中において栄華を尽くした歌人であるという。『新古今集』時代の歌人。恋歌ばかり二百首を残したが死ぬばかりが悲しいという。
幽玄巧みな詠いっぷりの歌人であるという。『曾丹集』は四季を毎月詠んだ歌集でその中の一首。「蓬が杣(よもぎがそま)」は蓬が茂っている我が家をへりくだって言っている。『源氏物語』「蓬生」を連想させるのか?そして、芭蕉の「きりぎりす」の句も。
短歌における批評
NHK短歌
『光る君へ』特集ということで、『光る君へ』に出てきた和歌を俵万智、渡辺祐真(すけざね)と共に解説していく。ヨイショ特集か?
『百人一首』にも登場するそれらの歌は教条主義的でもある。一首目が
兼家の妾とかクレジットされていた。兼家が亡くなるときに詠む道綱母の歌だが男尊女卑を描いた日記『蜻蛉日記』の作者でもある。
兼家が実際に詠んだのか定かではないが、さんざんなことをして死ぬ間際に水に流そうという魂胆なのか?平安の権力者ならではの死に際なのか?元の意味は兼家を非難する歌なのだが、ドラマでは和解の歌になっているのが味噌。俵万智のおすすめの歌。
高階貴子で藤原道隆の妻の歌。これも道隆臨終の歌でそこでも和解と解釈する和歌になっている(和歌が和する心の歌だからか?)。ご都合主義もいいところなんだが、死に際というシーンでは感情が高ぶる歌は危険である(同調し易い)。祐真おすすめ歌。俵万智は『光る君へ』の和歌使いを肯定するのだ。
T音とR音を絡めた「調べ」の歌だと俵万智の解説。このへんは教師らしい解釈だ。意味の方は名前だけ轟いて今はどうなん?という否定的解釈だった。俵万智だから公任批判も出来る。
道長からまひろに送られた三首。
自分で詠んだ歌ではなく引歌(他人の歌)でまひろの気を引こうとする道長は、いいのか?俵万智は『古今集』の番号の若い順から詠まれて意図的に恋が進行していると詠んでいるが、ただ順番通りにいい歌を探していただけじゃないかな。『古今和歌集』は恋の順番に掲載されている恋歌のバイブルとも言える。
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