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図書館本を切り取るなんて不貞やつがいるもんだ!

  『「俳句」百年の問い』夏石番矢(講談社学術文庫)

俳句は、正岡子規以来、百年間にわたって、ときに静謐、ときに華麗、かつダイナミックに花開いてきた。日本語の輝くエッセンスとして、国の内外を問わず、老若男女をとらえつづけてきた俳句の魅力とは何か。俳人はもとより、小説家が、科学者が、そして、イギリス・フランス人が、多面体としての俳句の謎に鋭いメスをふるった成果が、この一冊に集結。注目の三十二人が肉迫した画期的な俳論集。
目次
「美」をめざす俳句(正岡子規)
ほのめかしのスケッチ(B.H.チェンバレン)
「無中心」という新しい時空(河東碧梧桐)
目の驚嘆(P=L.クーシュー)
十七音の形式の力(芥川龍之介)
潜在意識がとらえた事物の本体(寺田寅彦)
超季の現代都市生活詠へ(篠原鳳作)
歴史的産物としての俳句(山口誓子)
俳句と短歌の近さと遠さ(水原秋桜子)
「真実感合」という飛躍(加藤楸邨)
平板な大衆性を脱出しえない俳句(桑原武夫)
俳句的対象把握(井本農一)
表現と人格の高度な結合(平畑静塔)
抽象的言語として立つ俳句(山本健吉)〔ほか〕

図書館本なのだが重要な作家の頁が抜けていた。正岡子規から編者の夏石番矢まで俳句100年の俳句論が32人分掲載されているので読み応えがある。大まかに言うと有季定型を信望するものと無季俳句の新興俳句系列か。俳人意外の作家(小説家が本業だけど一応俳人な人)も。桑原武夫とか掲載されているので彼の第二芸術論の趣旨がわかる。俳句を日本の民族の伝統と考える有季定型派と都市型の日本を考えれば無季になるという新興俳句系の理論が読めて面白いが悩む。そんな中で日本だけではなく海外の作家の俳句論も読めて面白い。


B.H.チェンバレン「ほのめかしのスケッチ」

チェンバレンは俳句を海外に最初に紹介した人で彼によって海外の詩人らが俳句に注目して俳句まがいの短詩を作るようになったのだ。

「ほのめかし」というのは警句(エピグラフ)のことで、偉大な作家の言葉を最初に引用して、自作の物語を始める手法だ。俳句が過去の作家からの影響を受けて、例えば松尾芭蕉が西行や杜甫からの影響の元に俳句を作るということ。虚子はこれを否定して、頭でっかちな観念的俳句よりも感性の俳句を求める(娘の立子に本は読むなと言ったのは、そうした立子の子どもらしさの感性を活かしたからか)。

チェンバレンは俳句を短詩(エピグラフ)だと捉えて、芭蕉を研究する。

ながながと
川一筋や
雪の原 凡兆

呼びかえす
鮒売り見えぬ
あられかな

凡兆の最初の句は水彩画のように一筆(三筆でと言っている)でさっと雪の中の川の情景を描き、次の句では「鮒売り」を消し去っているのだが、その声によってイメージさせるのであり、最後の「あられかな」の詠嘆で呼びかえす声は掻き消えていく情景なのであるが、そういうことは人生に往々にあることなのだ。

涼しさや
白雨 ゆうだちながら
入る日影 去来

夕立の涼しさの後に夕日が差し込んでくる情景を詠んでいるという。

浦風や
巴くづす
むら千鳥 曽良

「むら千鳥」を「ウミカモメ」としているのだが、一陣の風が鳥の編隊をくづす情景。これも展覧会の絵のようだと書いている。

弟子たちの秀作を並べて、それでも一番見事なのは芭蕉なのだと真打ち登場なのである。

株まぐさ 負ふ
人を 枝折しをり の
夏野かな 芭蕉

難しい言葉もあるが、夏の荒地の中で馬の飼料を集め背負う人夫の姿を時空を超えて我々に伝えているという(ちょっと褒めすぎ)。

ちまき結ふ
片手にはさむ
額髪 芭蕉

これも村祭で娘がケーキ作りに精をだして、もう一方の手で額髪を気にしながらケーキを売っているという。ちまき以上にケーキだとメルフェンチックになって楽しい。

「無中心」という新しい時空(河東碧梧桐)

碧梧桐は正岡子規に反することをしたように思われ勝ちだが虚子よりも写生にこだわっていた。ただ自然を観察するとそこに多様性があり、自己のような中心がないと主張する。山歩きなど自然のなかを俳諧することを好んだ。この傾向は、井泉水から自由律の尾崎放哉や山頭火に受け継がれていく。

目の驚嘆(P=L.クーシュー)

クーシューはB.H.チェンバレンの俳句をさらに理論的に説明し、世界に拡散人であった。俳句を短詩としての構文を持ち、映像を換気する自由なる(スケッチ)抒情であるとした。それは内部にある目(心眼か)で比喩的に喚起するイメージの詩であり抒情エピグラムと呼ぶ。

落下枝にかへると見れば胡蝶哉 伝守武

この句は江戸時代に流布したが正しくは、荒木田守武の句ではなく荒木田武在の句の語句を改変したものだという。作者の固有性よりも作品の優位性があったのかもしれない。

落下えだにかへるとみしはこてふかな 荒木田武在

十七音の形式の力(芥川龍之介)、潜在意識がとらえた事物の本体(寺田寅彦)

芥川龍之介は「ホトトギス」に加わったが17音の短詩系とみて、必ずしも季語は必要ないと考えていた。その点はチェンバレンの思考に近いのかもしれない。寺田寅彦になるとクーシューに理論になる。

超季の現代都市生活詠へ(篠原鳳作)

篠原鳳作は新興俳句の俳人で無季であることは、都会人の機械や文明に新しい発展いく姿だとして旧来の俳句を批判した。ただ機械文明に希望を持っていた時代なのかもしれない。

歴史的産物としての俳句(山口誓子)

山口誓子はそういう機械文明は都市性をモンタージュという手法で理論化したと思うが、晩年は日本の伝統や民族性に重きを置く発言をし、篠原鳳作とは真っ向対立していく。

水原秋桜子も加藤楸邨も俳句の新形式を模索したが結局は有季定型を捨てきれなかった。図書館本でここが抜き取られていた(とんでもない野郎だ!)

平板な大衆性を脱出しえない俳句(桑原武夫)

戦後の「俳句第二芸術論」が議論を呼んだが、戦時にすでにそのようなことが書かれていた。それは俳句による情操教育が一元化を生み出し西欧の論理性を身につけることがないという教育のことを言っていた。だから俳句教育を無くせは言い過ぎだと思うが。

桑原武夫の暴論?に山本健吉らの俳句擁護者が登場してくるのもこの時代。その反動が新興俳句弾圧に繋がったのか?

「創る自分のダイナミズム」金子淘汰

戦後になって、戦時の反省をふまえて金子兜太の前衛俳句が登場してくるのだが、社会性俳句に取り込まれていく。それは金子淘汰の理論の説明が難しすぎたのだと思う。象徴を「造形」と言い、直喩でもなく比喩的に俳句を創るというのだが、例題が直喩とまぎわらしい。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太

「蛍」が象徴であり「蛍烏賊」の群泳を詠んでいるのだが、蛍光灯が烏賊の光のように読めてしまう。直喩は和歌にある見立てということなので、そこから象徴というステップアップが必要だとするのが「造形俳句」ということなのだが、「社会性俳句」と見なされていくようになり自然消滅していく。

「二重星の世界」中村草田男

金子淘汰の天敵となったのが中村草田男であり、有季定型の雄だったのかもしれない。その論理は精神ということで伝統や民族性を重んじていくのが俳句であるとして、今はその論理が優勢なのかなと思う。季題の中心ということに日本の伝統と民族性を見ているようだ。自己ということだろうか。このあたりになると直感の精神みたいな話になって西田哲学に近いのかもしれない。本質とか普遍性とか哲学的論理だった。

夏石番矢「キーワードから展開する俳句」

夏石番矢が新興俳句系なので、最後にまとめように季語をキーワードと変えている。それは象徴する言葉を中心として、その中に自己を開放していくことなのかもしれない。それは芭蕉の時代からあったとするのだ。正岡子規が写生ということで有季定型の俳句の作りやすさと広がりを言ったのだが次第にそれがマンネリ化して新しい道を探って行ったのだと思う。今なおこの問いは深いものがある。


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