シン・俳句レッスン128
夏椿
白い花が好きなんだろうか。いや色の付いた花なんだろうけどその中にある白い花が好きなんだと思った。椿だったら本来は赤である。でも白の方が好きというような。バラも白薔薇の方が好きなのかもしれない。
紫陽花のアナベルから始まって、百日紅の白、そして夏椿である。白椿は別に春咲くのもあるのだった。夏椿は沙羅の花とされ沙羅双樹の花と間違われるという。別に仏教徒でもないんで間違えようがどうでもいいんだけど、西行は桜より沙羅の花を読むべきじゃなかったのか?と考える。その方が釈迦入滅としては合うし、桜だとまだピンクで欲望が透けて見える。
人生勘違いだらけという句。爆弾が誤爆では困りものだが。言葉の誤読なら許されよう。
芭蕉
川本皓嗣『日本詩歌の伝統』「俳句の詩学」から。
俳句を二章一文にするのはなんとなくわかるが、その中心となる方の基底部を〈〉で囲んで芭蕉の句の特徴を見るというのが正直よくわからない。わからないなりも見よう見まねでやってみれば何か手がかりが見えてくるかも。
上は拡張表現で下は擬人法。擬人法も拡張表現の一つでそれが俳句の俳諧味だという。
これは「吹かぬ笛」という矛盾を現し、実際には聞こえない笛の音が聞こえるようだというのは、「須磨寺」が平敦盛の物語を引き出すからであり「無声の楽」というのは古典の題材にもなっているという。
これも『平家物語』を題材に詠んだものであり、芭蕉の古典主義はこのへんの句からも伺われる。
古典で詠まれた「夏の月」の儚さを「蛸壺」という奇想な取り合わせが「はかなき夢」を生み出す(このへんの諧謔性は難しい。感性的なものかもしれない。蛸が炭を吐く動物であったり、蛸の頭が月を連想させたり、壷に隠れてしまう儚さだったり)。
これも「鶯」が雅の古典で歌われたのを踏まえて逆に諧謔性を呼び込む。
風狂な俳人ならば雪に転ぼうと雪見に出かけるのだ。
観光地の花を詠むよりもその前景でぼやける松を詠むボケの技法か?
芭蕉のこのような感覚をボードレールの詩のように己と自然を「万物照応」と合致させる。
鴨の声を「白し」と表現する。音に対する色使い。
そうした基底部〈〉の表現が切れ味するどいほどに干渉部が引き立ってくる。干渉部は現実の風景なのかもしれない。それに対しての基底部なのだろう。このへんは難しい。芭蕉の句を読み込むしかないのだろう。
NHK俳句
毎回言っているが第4週の句会が一番おもしろい。今回は神野紗希さん出演で読みもレベルが高かったな。
自分もイメージ的な不気味さで選んだのだが、下五が字足らずを評価した能町みね子の読みは見事だった。字足らずにすることで、なにかが足りない(人がいない)不気味さ、誰もいないあずま屋にある蜜豆に蟻がたかっているというホラー感の解説は見事だった。あと神野紗希の「あ」の母音の重ね方言葉の運動神経がいいとは名言かな。
これは大した句ではないと思ったが、神野紗希の寒天が白雨のように線状降水帯に見えるというのは読みとしては見事だったな。「まもなく」の使い方がどうなのかという意見があったが、そこはよくわからなかった。ただ蒸し暑さの中にも雨が降りそうな感じのときに食べるのは蜜豆というのは納得がいく。
これも取らなかったが、「蜜豆にマンゴー」で切れるのではなく、「蜜豆に、マンゴー信教の自由」という切り方を見てなるほどなと思わせた。韻律の自由さが前衛的なのかもしれない。こういう句会だと韻律まで頭が回らないのだが。