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シン・俳句レッスン153


九月尽

いつの間にか十月になっていた。そろそろ来年のカレンダーがと言い始まるのかもしれない。その前に九月に決着を付けておかねばなるまい。九月尽は秋最後の日を惜しむということだ。もう冬なのか?

声かぎり海へ唄ふよ九月尽 山口誓子

山口誓子かっこいいな。

ドロバチに眠らされて九月尽 宿仮

今朝詠んだ句。ドロバチの巣の写真句だった。


現代俳句

現代俳句十月号が届いたのだが、それは次回やって、今日は面白いテーマの討議の動画を。最初に戦争俳句についてだった。戦争俳句は時事詠になるのかな。自分の身内や自身が戦争体験がないとなかなか難しいと思う。全体の17%を多いと見るか少ないと見るか。やっぱ一年が十二月に区分して八月は戦争月間と言われるが、一割以下ぐらいだと思うが最近のウクライナ情勢とかガザ虐殺とかのニュースは無視できないものがある。

それらは時事詠として詠んでもいいと思う。最近はむしろそういう句が少ないように思える(新聞投稿とかはありそうだが)。あとダジャレとかダメ出したが諧謔性とかは江戸俳句にはあったのだし、一概に悪いとも言えない。それと観念句は打ち止めになるという意見だが、それは想像力が貧し過ぎるのだ。みんな一緒にしないでもらいたい。これだけ読みきれない本や音楽や絵がある世界だ。自然ばかりの写生が正解というわけでもない。季語の重要性とは、別問題だと思う。まず俳句は詩であるべきで単に写生した句が面白いとは思えない。そこに心情を感じるから面白いのである。

飴山實

『最初の出発 (第2巻)』から。この本がいいのは第一句集から100句(生前ならば自選)ということでその作家の特徴が良くでていると思う。

基地で無数の春泥の あぜぶち切られ 飴山實

『おりーぶ』

飴山實は前衛俳句よりも社会性俳句の人か?

石工の掌が税務署の蠅を掴んだ 飴山實

『おりーぶ』

税務署を詠む俳句も珍しい。

ガスタンクがスト告げ海かけて花曇り 飴山實

『おりーぶ』

ガスタンクに掲げられたストの垂れ幕だろうか?ハロウィンの世界からは想像出来ない光景だ。ガスタンクもあまり見かけなくなったが。

ガスタンク ハロウィン仕様でホラーかな 宿仮


Copilot

新谷ひろし 

寺山修司と関係が深い俳人のようだ。寺山修司の言葉として「俳壇はホームドラマ的ですね」と言ったとか。青春俳句かな。

https://www.city.hirosaki.aomori.jp/bungakukan/bunmyakunews-69.pdf

履歴かき終えてででむしが跡まぶし 新谷ひろし

飛礫 つぶて の歌』

最初の一句は、19歳の春の句。

青林檎飛礫とす とき心の内に 新谷ひろし

飛礫 つぶて の歌』

枯木立執拗に犬を拒みをり 新谷ひろし

飛礫 つぶて の歌』

ラストの句。

有馬朗人

解説を小林恭二がしている。選も大谷達治とある。

初夏に開く郵便切手ほどの窓 有馬朗人

『母国』

研究室の窓だろうか。世間との繋がりも感じる(郵便切手)。科学者俳人ということで、論理的な句が多いようだ。

受話器に受く母国語窓に降る落葉 有馬朗人

『母国』

雪だと思わせて落葉。韻律を合わせたのか。

ニグロのひげのトランペットを吹く月夜 有馬朗人

こういう句があると駄目だな。言語感覚がない人だと思ってしまう。「ニグロ」は差別用語なのに。単に言葉の問題だとするのは、科学者だからと言ってあまりにも外部が見えていない。

『おくのほそ道』

川本皓嗣『俳諧の詩学』から「芭蕉の旅」。『おくのほそ道』の冒頭は比喩が使われているのだが、それは李白からの引用であるが本歌取りのように李白の「時間は束の間旅人」というのを「人生は旅」というのに置き換える。それは李白の思想がネガティブな人の一生なんて一瞬のことであっという間に過ぎてしまうのだから酒でも飲んで楽しもうということに対して、芭蕉は人生そのものが旅であるとする。それは次の言葉で馬子や船頭や魚や鳥も行き交う者すべてが旅人であるとインテリと庶民や下等の動物の間に差をもうけない。これが諧謔精神であり、それが李白と切れているから芭蕉特有の人生論となっている。つまり『おくのほそ道』その俳文そのものが俳諧精神の文体であるという。芭蕉が李白の引用から対句させた俳諧的世界の道だという。
芭蕉を永遠の旅人と解釈されるのはそういうことだった。芭蕉の「旅」という隠喩とのことだった。

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