必要は発明のスマホ聖夜過ぎ
スマホで日記が書けるのか?とりあえず、小出し方式(まだこのスタイルの名前は決まってない)で進めて行けばいいのではないか?
寒さと痒さのなかで毛布にくるまりながら出来ること。さらにスマホの入力練習にもなるかもしれない。そのうち映画の人のように猛スピードで打てるかも。いまは人指指入力だった。練習アプリもあったよな。
とりあえず、風呂沸かして、ラーメン食べる。今日の一句。
ここからはパソコン入力。風呂に入って、聴き逃し「サンキュータツオの国語辞典(国語辞典サーフィン)」。「すする」と「たぐる」の違い。「すする」は吸い込む感じで、「鼻をすする」とかあり。「たぐる」は手でひきよせる。驚いたのはそばを「たぐる」と言う。それはそばの早食いで、口に入っている間に次のそばを手で口元に持っていきいれるというのだった。江戸っ子の食べ方なのか?知らなかった。「すする」で検索したら「ラーメンの死亡記事」。
毎日ラーメンはよくないのか?最近カップ麺は高いのでインスタントラーメンにして、スープ餃子で食べていた。スープは使わないで、次回の出汁にしたりして。そろそろ年越しだから蕎麦も買ってこなければ。「国語サーフィン」は15分番組なので、ちょっと風呂で温まるのは短すぎるかもしれない。
風呂場でフリック入力の練習をした。まだ人差し指入力だった。
今日は読書でnoteにアップしてない奴をアップするか。現代詩も(なかなかやる気にならない)、そのあと図書館に行って本を返却。正月用に長編小説を借りるか?文芸誌でもいいかな。時間があるから読めるかもしれない。それと短歌雑誌か俳句雑誌だな。詩の雑誌も余力があれば、今手元に一冊あるからそれが終わってからだな。こんなところ。
「石鹸」というお題で短歌を作ったのだが、家の石鹸がもうなくなりかけている。買ってこなければ。
三回目の風呂ラジオは太宰治『斜陽』の朗読。
母のスープの食べ方から「貴族」について考える。兄が言うには「貴族」はスタイルではなく、育ちだという。語り手が思うのは母はテーブルマナーに縛られない独自な食べ方だが美味しく食べることを第一にしているという。その仕草が様式から外れていても高貴に見える。一番面白いのは白萩の奥で小水をする母の自然な姿、それは誰も真似できることではないが、そこに可愛いらしさを感じさせる。ルイ王朝時代の貴婦人は所構わず小水をしていたという語り手の一言によって決定付けられる。
あるいは『斜陽』では「乞食」という言葉が使われているのでNHKだから最初に断らなければならない。それは語り手が他者を貶める言葉ではなく、自分自身を母の貴族性に比べて乞食のようだという使用法なのだが、それも様式だけで判断すれば差別用語だと憤慨する人もいる。文学の世界ではそんなに気にならない人もいる。むしろ、太宰が描きたかったのは貴族制度の廃止によって露頭に迷う貴族の世界なのだ。戦争という中で頼り手もいない者がどう生きていくかという話なのである。乞食性は語り手のキャラなのだ。
例えば光源氏の男娼はロマンとして見られ、白河上皇の男娼は上に立つものあるまじきあさましい欲望だと見られる。芭蕉は芸の道?そういうことはノーマルな異性愛では変態行為なのだが、当時の貴族社会では当たり前のこととして受け入れられてきた。ただそこにある個人のキャラが同じ言葉でも現代の社会では非難的になるのか?
「おかま」というこれも差別用語なのだが、「オカマのオスギとピーコ」で育ったからそれほど奇異な感じはしない。いや十分奇異なのだが、それはキャラとして受け入れて来たのかもしれない。
『現代詩手帖2024年11月号』の「【特集】同じ屋根の下で――台湾同志詩の現在」で同性愛者差別となくそうという企画の台湾の詩人の詩なのだが、よくわからないのは、実際に同性愛者はいいとして異性愛者が彼等の詩を真似てどうにかなるんだろうか?とも思う。それは同性愛としてのキャラと受け止めれば人として好き嫌いの範疇だろう。生理的に嫌という人にはどうにも出来ない気がする。それでもそう公言することは一つのキャラ性として、そこには同性愛の問題ではないと思うのだった。最近問題の「当事者性」ということなのか?演技として同性愛の詩を書くということで躓いている。
図書館で一冊返却、6冊借りる高橋源一郎。〚「不適切」ってなんだっけ』。最初が流行語大賞をとった「ふてほど」ドラマの話。コンプラが行き過ぎて86年からタイムスリップした教師をコミカルに描いているという。クドカンのドラマだった。ハラスメントの多さについて書かれいるが、「ハラハラ」というハラスメントということ自体がハラスメントだというクレタ島のなぞかけみたいだ。「みんな自分の娘みたいに思えばいい」というが娘がいない人はどうする。それに娘だからハラスメントする親父もいるだろう。個人間のコミ能力の問題なのかなとも思う。高橋さんもNHKではいつもふてほど訂正されているのである。最初から訂正すればいいのか?黙ってるが一番という風潮が一番良くないと思うのだ。
ネットカフェで「歌謡スクランブル 1960年代特集」を聴いている。ほとんど口ずさめるのが不思議だ。今の流行歌なんてほとんど分からないのに。単純な歌詞ということもあるのかもしれない。それにしてもやたら愛の讃歌だな。こんなにも愛の歌ばかり歌っていた少年はどうしてこんなになってしまったのだろう。愛の無力さを知るのだった。でも、今聴くと夢の世界だな。そこに希望を見出すことこそ若さだ、ということをゴダールが言ったとか。
午後は駄目だな。というか夕方六時ぐらいには寝てしまう。「シン・現代詩レッスン」を少しやったのだが。『現代詩手帖2024年11月号』も明日返却しなければならない。やっと「【特集】同じ屋根の下で――台湾同志詩の現在」の道筋が見えてきたのだ。
ユーチューブでウクライナ情勢とか韓国情勢とかトランプ情勢とか見ていたが暗いニュースばかりだ。そう言えばスーパーがクリスマス仕様から1日で正月仕様になるのにいつも感動していた。値段も高くなるのか、正月用品が高いのか。あまり買わないのだがいつもクリスマスから正月は出費が多いと感じる。
一度寝て起きて風呂ラジオは太宰治『斜陽』の朗読二回目。朗読の母が婆さんみたいな読み方をしているが原作もそうなのかな。太宰の娘の一人称も今聞くとそれほどでもないな。そんな29歳のイケズゴケがいるかと思ってしまう。結婚はしてないんだよな。母は未亡人だけどかずこは兄が戦争で行方不明で母と二人暮らしなのだ。貴族的気分が抜けきらないお花畑の頭のようで、なんで太宰のこの小説がベストセラーになったのだろうと思う。女性の語りでは、『駆け込み訴え』とか『女学生』はすきだが『斜陽』はカマトトぶっているようで好きではなかった。以前読んだのもあまり覚えてなかった。父の葬儀で蛇のエピソードがあるのだが、そこはポイントだろうか?蛇の卵を焼くとかどんな意味があるのかと考えてしまう。ただ単に蛇が嫌いだからか。それにしては父の葬儀で木にぶら下がる蛇を見るのは幻想的な気がする。母が紐と間違えた蛇が庭のあっちこっちの木にかかっているのだ。なんの暗示だろうか?
図書館で『文學界2024年9月号』を借りた。特集が短歌で歌会「短歌を詠み、短歌を読む―十三名による大歌会」がおもしろかったというか歌会なのだが、現代短歌の俊英なのだろう、穂村弘とか永井祐とか大森静佳とか、木下龍也とか。今の短歌をしるにはいいのかもしれない。これはあとで「シン・短歌レッスン」にまとめる。
先に現代詩と俳句をやってからだな。