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電車で観た旅の民族学

『民俗学入門 』菊地 暁(岩波新書)

普通の人々が営む日々の暮らしを深く知り、驚く。人生と生活の細部に直に触れ、世界の奥行きに畏怖しながら、複数の歴史を「私(たち)」からつかみ出す。繰り返される過ちから目をそらさず、よりよい未来を考えたい。これが民俗学のエッセンスである。「人間にかかわることすべて」に開かれた、野心的な「共同研究」への誘い。

日常の中で変化していく人々の暮らしを見つめて(観察して)行くことで万人が出来る学べる「普通の人」の学問。柳田國男が提唱したのは、これからの人は平等に学び知識を広げていくこと(在野とかいう)で、民族学は我々の衣食住について学びながら「君たちはどう生きるか」みたいな。

いろいろな学びがあったが、「遠野」を旅しながらこの本を読めたのは良かった。ちなみに「旅」は「たべる」から来ているので、食べ物を求めて漂泊する人のイメージで、旅行のtravelはtroubleから来ている話だという。だから小旅行ということか。

それは今ではどこにもある街道沿いのコンビニであったりネットカフェであったり大衆浴場があるので、昔のように宿泊する場所に困るということはなく、一人で気楽に行けるのは事実である。そこは贅沢をしようと思えばどこまでも贅沢が出来るが、節約しようと思えば日常の延長で行けるのだった。「ひとり旅」のスタイルもスマホを持っていれば日常での延長でしかない。

例えば釜石に言って「釜石ラーメン」(東日本大震災の復興の象徴)を食べたいと思って、唐突に行ったが「釜石」にはイオンもあって港に行くよりもそこで休憩していた。初日の映画『君たちはどう生きるか』を見たのもイオンシネマだった。ほとんど日常と変わらない。

例えば百貨店からスーパーマーケットという進化系があって関西圏ではダイエーで関東圏ではイトーヨーカドーという時代の変遷があるのだが、今はイオンなんだよなとか。そこで衣食は出来てしまうわけで、住にしても他所からしがらみなくやって来る人が街道沿いに都会と変わらない街並みが出来ている。

「遠野」は本来海と内陸部の中継地として栄えたところだった。その中で貧困の生活者が生活していくために、馬を使っての運搬業とか栄えた所だった。東北に昔話が多く残るのも、まだそういう生活が近代の頃はあったということなのだ。

始発電車の中で女子高生が化粧するのは変わらないが、男子高校生は座席横になって寝ていた。老人は弁当を広げて畑で取れたのかきゅうりやトマトをそのままボリボリ齧っていた。それは遠野の電車がゆとりがあって出来ることなので、都会ではそんな余地はなく始発から席を取るのも大変だ。

鉄道に関しては面白い話があって、始発駅から乗る女子高生が山の手の学校に通っていた頃に、朝からサラリーマンの男が座っている女子高生の前に我先へと急ぐのだそうだ。途中駅で降りる女子高生の空いた席に座ろうとする通勤のサラリーマンであった。その他に電車による区別が仲間意識を強化するという話があったり、ほとんど私鉄で通う子が多いのだがJRは1割ぐらいの少数派なので次第に関係が出来たとか。

電車を観察するのだけでも面白い。そう言えば地方は途中駅は先頭車両しかドアが開かずに、それも自分で開ける。それだけ人が少なく、都会に近づくに従って人が多くなり人の熱気で車内の冷房も効きが悪くなる。実際に暑さに感じるストレスは都会の方が大きいのかも。宇都宮線とかこの酷暑には息苦しかった。宇都宮から栃木・埼玉・東京・神奈川と便利になっているのだが人が多くてストレスがかかる通勤電車なのである。

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