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シン・俳句レッスン166
短歌と俳句の違い
堀田季何『俳句ミーツ短歌』より「短歌と俳句、寺山修司の場合」。
すきな歌人を一人あげろと言われれば寺山修司を上げる。でも寺山修司の俳句はそれほどいいとは思わない。寺山修司の特徴として本歌取りのテクニックがあると思うのだが寺山修司は俳句でも本歌取りをしていたということだ。
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
桃太る夜は怒りを詩にこめて 寺山修司
寺山修司の短歌の本歌取りはのちに非難を浴びたのだが、それは俳句から取ってきたからなのだと思う。俳句には本歌取りの伝統がないのだ。だからそれをパクリ認定してしまう。
鳥わたるこきこきこきと缶切れば 秋元不死男
わが下宿に北へゆく雁の今日みゆるコキコキコキと缶切れば 寺山修司
まあ、これは鳥を雁にしただけなんでパクリと言われてもしかたがないかな。
紙の桜黒人悲歌は地に沈む 西東三鬼
かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む 寺山修司
この歌は桶はキリスト教の厩の桶なのではないのか?黒人悲歌(ゴスペル)はキリスト教の讃美歌を大地に返したものだ。意味が深まっていると思う。三鬼の歌は軽いコメディのようではあるが。堀田季何の説明だと黒人奴隷の紋切り型の歌だというのだが、黒人悲歌が聞こえてきくるような気がする。
自分の俳句から短歌も作った言う(わたしもよくやる)。
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し 寺山修司
父親になれざりかば曇日の書斎に犀を幻視するなり
この犀は「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」という経典(『スッタニパータ』)なのだろう。それを幻視したという象徴性は見事な俳句なのかもしれない。「父親になれざりかば」は説明になっているという。つまり仏教経典の輪廻転生を拒否するもの(父の否定)と考えれば犀の幻視も頷ける。
俳句のほうは切れが明確に入っているが短歌ではそれが続いてしまう。それは散文的な文体なのだという。なるほど確かにそうであると思うのだが、散文ならばなぜ悪いと思ってしまう。
俳句の短詩系の形が短歌では決まらないのは、寺山修司だけの歌ではなく、他もそうではないのか?それは寺山修司の欠点というよりも短歌の欠点であるのだ。しかしその欠点故に短歌は俳句よりもわかりやすい(意味を汲み取りやすい)のではないか?
そして夏井いつきの言葉として河東碧梧桐の自由律で長い文章でしまりがないのを切れがないという。俳句の十七音が切れの働きやすい効果だと言うのだ。それが事実としてあったならば、みな俳句を詠んでいるのに短歌を詠むものもいるのである。切れ以前に短歌は短歌の効用があり、それは俳句の効用とは同列に語れないと思ってしまう。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身を持つるほどの祖国はありや 寺山修司
たぶんこの短歌は寺山修司の代表作として歌壇では認められているのだ。しかし、それが富澤赤黄男の俳句や西東三鬼のパクリだと言われる。
夜の湖あゝ白い手に燐寸の火 西東三鬼
一本のマッチをすれば湖は霧 富澤赤黄男
まったくパクリしか思えない俳句の並びである。寺山修司のオリジナルティはマッチよりも祖国にあるのだ。これは俳句から短歌への成功例というのだが、失敗をおそれては成功も有りえぬではないか?短歌の本歌取りという手法がある以上それを利用しない手はない。芸術は模倣から始まるとは数々の文学者が言っていることである。そして、本歌取りというのをカット&ペーストとしてバロウズ流にアレンジすれば素敵な短歌になると信じるのだ。
歌語ネバー・ダイス 短歌・俳句の語彙
「ネバー・ダイス」の意味がわからなかった。「諦めない」とか「不屈の」とかという意味だという。歌語とは和歌で決められた、和歌では大和言葉を使うということなのだが、それは紀貫之が漢語による歌よりも和歌を特徴づけるものとして大和言葉で作るという指針にしたのだ。大和言葉のサイトもあるという。これは便利だ。
そういう約束事が嫌で俳諧は俗語とか入れてもいいとしたのに、芭蕉が言葉遊びの下劣な俳諧ではなくという論がまかり通って、今のように俳句にも約束事が増えていく。それは俳句というよりも発句や俳諧のことなのだが、それを俳句の約束と勘違いしているのだ。そうしたルールは江戸時代に保守的な和歌としてあったのだという。そして戦後短歌ではそれが逆転していく。俳句のほうが規則に縛られ短歌は自由を獲得していくのである。ただ短歌の世界にも保守派はいて、和歌のルールで行こうという者もいる。そのシステムをつくっているのは結社主義なのかもしれない。
「わかる」って、なにがわかるということ
これも今直面することで「わからない」と良く言われてしまう。逆に俳句や短歌のよさがわからないと調べろという。
例えば歳時記なんかに出てくる俳句だけで使われる季語を使ったとして一般ピープルに理解できるのか?というのがある。それを理解するのは俳句経験者だけで、そうしたことを蘊蓄として句会とかで語られるのだ。
それが正しいのかよくわからないのは、知識としての俳句芸術ならば、別に俳句なんてやらなくともよくねえと思うのだった。そうしたルールが必要なのはゲームであって芸術ではない(だから虚子は文学ではなく文芸に甘んじたと思う)。
まあ、句会は俳諧の中のゲームであってというのが最近の学びだった。表現行為としての芸術ならば、「わかる」ことに囚われることはないのだと思う。かといってそれが理解されたくないということでもない。何故なら芭蕉の句は誰が読んでも理解出来ると思うからだ。名句とはそういうのを言うのではないのか?
堀田季何『人類の午後』
テロリストがFが喰った最後の柿 堀田季何
Fって誰だろうか?実際に現実にいる人なのか?柿というから日本人なのか?正岡子規が関係するとか?
テロリスト順次集合星樹前 堀田季何
「星樹」はクリスマスツリーで季語だった。俳句をやるものとして屈辱を感じないのか?「門松前」とか。正月早々テロリストには盆も正月もないのだ。
雪が溶けると、犬の糞をみることになる。(イヌイットの諺)
雪穴を犬跳ねまはる崩しつつ 堀田季何
エピローグは短詩ということでこの句の詞書ではないのだった。でも、関連しているのかな。雪穴に何を埋めるかだ。
雪眼鏡割れて一切雪となる 堀田季何
「雪眼鏡」はゴーグルのことか?「雪眼鏡」という雪の結晶を見るルーペもあるようなのだが
雪いづれえ水に還らむわが骨も 堀田季何
「雪」は旧字。ヨの真ん中が飛び出ている。パソコンでは出ないのでそのまま。こういう字は難しいのだが自体として文字の見た目を考えているからだろうか。そう言えば骨は漢字の始まりか?
NHK俳句
句会の兼題「眼」。中西アルノさんの句を映画のような物語を感じさせると古坂大魔王が大絶賛。オノマトペを効果的に使っている句はどれだ?古くて新しい言葉に出会える句会
句会の回だった。だいたい高得点句はみな選ぶのだが、次第にそういう目が出来てくるのか。五人ぐらいの少数精鋭で忌憚なく批評し合う句会がいいのかもしれない。大所帯になると無得点ばかりで何もコメントがないから面白くない。高得点を取ればいいわけだが、それがなかなか叶わぬ。
目という一字の題詠はけっこう難しいのか残り一六音も言えるので、それが多いのか少ないのか。
だいたい高得点句は決まってくるもので、グループ内での暗黙の了解が出来て高得点句は、そこのリーダーの句作の傾向によるのかな。ここではオノマトペの出し方がプロとアマの差が出たという感じだ。
ぬと頭ぎろと目玉やセーターより 高野ムツオ
やっぱプロらしい誰にも読めないようなオノマトペを使う。それも対句の取り合わせだ。下五が字余りということだが、それを感じさせない上句の畳み掛けに凄みを感じる。上五の「ぬと頭」がいい。普通は「ぬっと頭」としてしまうのだが、っを省略したことでのスピード感か。ちょっと今までにない句だった。
夜長しやスマホゴロゴロ目ショボショボ 古坂大魔王
これもオノマトペが対句になっているのだが、「ショボショボ」のありきたりさかな。スマホゴロゴロも目がゴロゴロするということで同じことをシンプルに詠んだということだった。季語が「夜長」も平凡で選ぶのは難しい。逆に
スマホごろごろ眼(まなこ)しょぼしょぼ長き夜
がいいと改作した人がいた。少数精鋭だとそういう批評も勉強になるな。自分はスマホゴロゴロが意味が取りづらいので逆にした方が意味としては通りやすいと思った。
スマホしょぼしょぼ眼ごろごろ長き夜 宿仮改作。
アルノちゃんの季語を平凡なものではなく普段つかわないようなものでトリッキーさを出してみたらというのは面白いという意見を取り入れてみよう。
蚯蚓泣くスマホしょぼしょぼ眼ごろごろ アルノ+やどかり改作
これはいいかも。スマホで蚯蚓の動画を見て泣いてしまう。どういう状況なのかわからんが物語性が出てくる。アルノちゃんは指導もできるようになったと高野先生のお褒めの言葉。けっこう読みが深いよな。
秋彼岸目をぎゅっとつむって「もういいかい」 アルノ
これは「もういいかい」で隠れん坊とわかるので、つむってはいらないと思った。俳人の生駒大輔も似たような意見だった。ただ高野先生の解釈は句以上で、秋彼岸でお祈りして目をつむっているときに隠れん坊の声が聞こえてくるというものだった。逆に古坂大魔王が年寄りが「もうそっちに行っていいかい」という意味の句という読み。みんな読みのレベルが上がっている。自分はまずそういう読みは気が付か成った。秋彼岸という季語が立っているのだから墓参りということだよな。
流星を数ふ眼の青むまで 高田正子
後から気がついたのだが旧仮名の文語体だからプロの句だなと思えばもう少し深読みできたのだが、青い目の外人かよと思って取らなかった。白目をよく見ると夜空が映り込むというような。そこまで星一面の夜空なのだ。流星を数ふといういいかたは、そこにおまじない的要素がはいってくるのか?ファンタジーの世界観だけど俳人らしい句なのかな。「青麗」主宰で青学出身で青が好きな人みたいだ。
天体いま眼を渡りゆく冬の街 生駒大輔
これもけっこう凡人句だと思ったら、高田正子が「天動説」という意見で蕪村の菜の花の句を思い出した。
菜の花や月は東に日は西に 与謝野蕪村
確かにこの句を踏まえているような気がする。高野先生は「天体」が漠然すぎてどうなのかと言っていたが、生駒大輔はそれを受けて「天体」も「冬の街」も漠然と広がってしまったと素直に批評を受けているのだった。なかなか勉強になるのは少数限定だからだろうか?駄目句にも批評が届いて、勉強にもなる。それでは仕切り直しで今日の一句。
目に菊花君が代歌えば国粋主義 宿仮
そんなことはないのだが、俳句の伝統だよな。酒が必要か。
目に菊花詩吟歌えば李白かな 宿仮
また李白を持ってきた李白好き。まあ。こっちの方がいいだろう。李白の菊花の漢詩はあったかな?月はよく詠むのだが。予想通りあった。
菊花は黄花ということらしい。それを使えばこの詩のことだと分かる人には分かるけど。菊花でいいと思う。色々種類があるから黄色だけに限定するもんでもないし。
<兼題>木暮陶句郎さん「寒椿(侘助)」、高野ムツオさん「コーヒー」
~12月2日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>堀田季何さん「薄氷(うすらい)」、西山睦さん「春セーター」~12月16日(月) 午後1時 締め切り~
芭蕉の風景
京は 九万九千くんじゆの花見哉 芭蕉
貞門(ていもん)俳諧時代の句で「貴賤群衆」は世阿弥の『西行桜』の掛詞である。当時の人口は西鶴の小説に九万八千とあるというのをほぼ事実を詠んだのか?京の桜の名所に実際に出かけたのではなく芭蕉の憧れを詠んだものだとする。
東京の一千万とや桜散る 宿仮
一千万死んでまた生まれるのが自然なのか?
うち山や外様しらずの花盛 芭蕉
これも貞門俳諧の言葉遊びの句で「うち」対して「外」の意味で外様大名と掛けている。芭蕉が住んでいた近くの「内山永久寺」の桜だろうか?芭蕉の時代は松だけだったというが想像で詠んだのか?その後この寺は廃仏毀釈で取り壊されたという。芭蕉の句碑と池の廻りには桜が植えられているという。桜幻想か?サクラ大戦みたいだ。
帝国のサクラ大戦舞台化か 宿仮
大した意味はなかった。宝塚とかの舞台を連想したのだった。
山は猫ねぶりていく雪のひま 芭蕉
陸奥磐梯に「猫山」という山を『おくのほそ道』の時期の作だという。実際にはここを通ったわけでもなくその言葉から想像して作ったのだという。評論家の山本健吉は貞門時代の句は言葉あそびにしか過ぎないとダメ出しをした。「雪のひま」とは「雪解けの跡」でそれが猫が舐めたようだという句。猫が眠って雪も暇だったのかと思ったが違った。猫のぶぶんだけ雪跡が形として残ったとはいうのは雪に強い化け猫か?まあ、そこは猫魔ヶ岳というところらしい。
山猫眠るドロンよりランカスター 宿仮
『山猫』という映画が好きで、それはやっぱアラン・ドロンよりバート・ランカスターだと思うのだ。
盃の下ゆく菊や朽木盆 芭蕉
芭蕉にも菊で一杯の句があったのか?「朽木盆」はお盆でその上に盃があったのか?だとするとこの菊は実際の菊ではなく絵だった。重陽の節句に作ったとされる。菊は不老長寿の花として、朽木盆に掛けていた。この句は談林風で菊が不老長寿と詠まれた歌曲ということだった。漢詩を元にした詩吟だろうか?朽木盆という当時の道具が詠まれているという。
俳人はボジョレヌーボより菊水 宿仮
菊水の酒ってなんかあったな?そのまま「菊水」という商品名だった。
此梅に牛も初音と鳴つべし 芭蕉
「初音」は鶯だよな。芭蕉のユーモアか。談林俳諧の発句に
さればここ談林の木あり梅の花 宗因
宗因は談林俳諧の牽引者。その新派を受けての芭蕉の句であった。
牛は天神様の撫で牛が関係しているという。天神様は菅原道真の神社で飛梅として有名だ。そうえば町田の天神様にも撫で牛があった。
撫で牛や梅を愛でて芭蕉かな 宿仮
今度芭蕉祈願に行かねばならないな。梅が咲く頃。
句会反省会
もうあまり見る気もしないのだが、やっておくか?前回より一点増えて3点だった。まあ一点アップだからいいとするか。でも一生懸命やってもこの結果だからな。
鼓星けはいひとつや咳払い(2点)
菊人形ムーミン一家ミイいない(一点)
猩々木(しょうじょうぼく)酔から覚めて白い家(ホワイトハウス)(0点)
「鼓星」はオリオン座のこと。夜明け前にゴミ出しに行ってオリオン座を見て感動した句。この句は「鼓星乾坤一擲打音連打」が最初の句。こっちは雑誌の投稿に出した(漢字だけの句でかっこいいと思った)ので、ちょっと変えた。打音連打は星のきらめきを詠んだのだが咳払いは「咳をしても一人」に掛けた。猫とかそんな気配に咳払いして追い払う悪霊退散を込めて(それが鼓の一音なのだ)。なかなかそこまでは読んでくれる人はいない。
ムーミンの句はNHK短歌でムーミンの話をしていたので菊坂の菊人形を連想したのだ。漱石『三四郎』のシーン。まあ、これは菊が黄色っぽくていいということだった。
時事詠はその前も受けなかったな。時事詠は一句は読みたいと入れるのだが、取られない。
高得点句はやっぱ写生句なのか?写生句頑張っているんだけどな。気配とか絵にならないもんな。ムーミンは絵になるか?
やっぱ改良点というと写生句か?