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シン・短歌レッスン164




松下竜一『豆腐屋の四季』

松下竜一『豆腐屋の四季』から。

空母迫れどただ卒論に励めりと書き来し末弟の文いたく乱る 松下竜一

松下竜一『豆腐屋の四季』

佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争である。大学生の弟がデモに参加しようか揺れている気持ちを手紙に書いて来る。豆腐屋の主人としては、そんなことをして何になるのか?選挙で政権を引っくり返すべきではないのか?しかし地方の政治の関心の薄さに加えて成人式を迎えた妻に保守議員から祝儀のハガキが届く。新聞投書では世間的な論理を開示しながら、弟がデモに参加したという知らせで心が揺れる。

悩みぬきヘルメット持たず佐世保へと発つと短く末弟は伝え来 松下竜一

文法、「来」の活用を覚えよう。カ行変格。こ、き、く、くる、くれ、こよ。上の「書き来し」は「かきこし」かもしれない。

末弟がデモに参加しようが豆腐屋の主人として雨が降ろうた大雪だろうが豆腐をお客に届けようとするのだった。

大雪を突きて豆腐を押し来れば小祝島の人ら賞め呉る 松下竜一

雪ばかりの短歌が続くので北海道の人かと思ったら九州の人だった。九州でも大雪が降ったので特別に雪の短歌が多いのかと思う。

月照らう甕のにがりを汲む深夜どの雲ならん粉雪散らせ来 松下竜一

そんな苦労をしてまで豆腐屋を開業してきたのだが、短歌での変化として、新妻との間の「相聞」を結婚のお返しと送ったのを、妻が新聞の家庭欄に投稿したのが話題になり、それを求める人からの手紙が来るようになった。またそれと同時に新聞やラジオでも話題にされて、「相聞」は増販するもさらに注文を呼ぶことになったのだ。19歳の妻と貧しいが一生懸命に生きる豆腐屋の日常が話題となって、ちょっとした騒動になっていく。

豆腐売れぬ悲しみも ときと未だ知らぬ妻は稚く春待つらしも 松下竜一

新聞・ラジオからTVとさらに話題を呼んだのだが、恥ずかしがり屋の妻はその騒動に泣いている毎日だった(プレッシャーが彼女を悲しませた)。

坂口弘

『坂口弘歌稿』から。

短歌と俳句の違いは同じ死刑囚でも自身の後悔を歌で表現する坂口弘と自己の世界を括弧たる俳句の中に築く大道寺将司の違いがある。最初は坂口弘の自己後悔の短歌に惹かれていくが、次第にその弱さを顕にする姿に耐えられなく、大道寺将司の毅然とした自己を築く俳句の方がいいかなと思うようになる。

小心と負けず嫌いが同居して対人恐怖の吾となりたり 坂口弘

それはもしかしたら合わせ鏡のように自己を投影する姿がどうしようもない人間の弱さを見せるからだろうか?

点検の前の必ず手で壁を三たびうたねば不安な男 坂口弘

そこには犯罪者よりも神経質な日常の不安に苛まれる男の姿があるだけだった。

四十四の歳よさらばと人屋にて桶の張り水に顔映し見る 坂口弘

この歌なんかかなりのナルシストでナルシスの神話そのものという感じだ。

爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか 坂口弘

自虐というかマゾヒズム的な快楽である歌のような。

憎しみのこもる葉書を貰いし夜てのひら熱く寝られずにおり 坂口弘

世間の敵意と歌の癒やしの世界なのだろうか?

歌詠めば豊けくなりて何ものをも生まず壊しし武闘を思う 坂口弘

やはり短歌は新たな武闘闘争としてあるのかもしれない。

人屋にも華やぎはある桃色のスゥエットを着て浮れ歩けり 坂口弘

こういう歌だとホッとするのは武闘が舞踏になっているからだろうか?

証言の刺突のことを老いし母は「本当かい」と憂き顔に訊く 坂口弘

こういう歌はけっこう辛い。

傍聴の母をいくたび泣かせしや三年あまりのリンチ証言 坂口弘

職の名を訊けども母は答えざり人屋のわれを支える仕事 坂口弘

現代短歌評論賞受賞作

『短歌研究 2024年 10 月号』第四十二回 「現代短歌評論賞」発表
受賞作=竹内 亮「仮想的な歌と脳化社会ーー二〇二〇年代の短歌」
選考座談会 川野里子/松村正直/土井礼一郎/寺井龍哉
次席=奥村鼓太郎「アリーナが消失する前に」から。

竹内 亮「仮想的な歌と脳化社会ーー二〇二〇年代の短歌」
『起きられない朝のための短歌入門』我妻 俊樹/平岡 直子でわからない短歌と木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』でわかる短歌を論じながら深層的には二つの潮流は脳化社会(養老孟司)で繋がっているということに興味を持った。

まず「わからない短歌」だが、大学の短歌会のような専門的に成りすぎた文芸倶楽部のような中では、そういう論述に慣れている歌人とまったくなれてない一般ピープルでは理解の度合いが違う。それは伝統短歌にも言えることでまず文語や旧仮名を理解してないと理解の度合いが違う。そのことによって短歌が専門性を帯びてくる一方で、木下龍也がやっているようなコピーライティングの短歌が一方で流行る。それは木下龍一が手本とするコピー来ティグの手法として100万人を相手にするという言葉にあるように一般ピープルにわかる短歌を読む。

それは木下龍一は「死」について、ネガティブさをポジティブに詠んで共感を得るというような。それがネットなどの「脳化社会」と繋がっていく。「起きられない朝」の短歌も「脳化社会」のヴァーチャルな想像力であり、それは今までにあるような象徴表現を進めたものだという(ここがわかりにくいが)。木下龍一の死は限界性ということなのか?社会の限界性が様々なところで明らかになっているが、それをポジティブに一回限りの生に変えていこうというものかもしれない。意識の変化を求めるのだが、それは結局ヴァーチャルなものであって根本的なところでは変わってないのだと思う。

次席=奥村鼓太郎「アリーナが消失する前に」
これも似たような感じで文語と口語を分けて考えていたが最近では分ける必要もなく「キマイラ文語」というのがあるという。ただもうその本は絶版状態になっていた。あまり支持されなかったのか。「なんちゃって文語」のようなものだと思うが、「文語」が先行歌人の短歌を真似て当世風の文語にするので、それは歴史的に培われた文語でもなく(教科書的な)、イメージとして復古調や巫女性を出すような感じなのか。口語も文章化するに当たっては文語と言えるわけだが、それを口語(他者の言葉)として「」付きや最近では自己と他者をあえて交えている場合もあり、口語と文語は接近しているのだが、この「アリーナ」という言葉がよくわからない。観客(読者)ということかな。そういう危機感を論じているのか?


選考座談会 川野里子/松村正直/土井礼一郎/寺井龍哉

他に時事詠短歌の変遷とかヴァージニア・ウルフが現代女性歌人に与えた影響とか岡野隆を医療のパラレル・チャートというカルテに書いてはならないものを余白に書くというような。それは科学的手法よりも主観的手法のことを言っているのかもしれない。落選だから選評以上にわからないのだが。最近の傾向として短歌を上げての解釈よりも最初に自分の主張だけを述べるという流行りのようで、歌の解釈が出来てないという厳しい言葉だった。

キマイラ文語の本は読んでみたい。



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