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ふるえる短歌が読みたい

『短歌ムック ねむらない樹 vol.8』

特集=第4回笹井宏之賞発表/渡辺松男の世界/2021年の収穫

【特集1 第4回笹井宏之賞発表】
◎大賞
椛沢知世「ノウゼンカズラ」
◎個人賞
大森静佳賞
涌田悠「こわくなかった」
染野太朗賞
佐原キオ「みづにすむ蜂」
永井祐賞
上牧晏奈「ふぁんふぁん」
野口あや子賞
手取川由紀「直線」
神野紗希賞
安田茜「遠くのことや白さについて」
◎選考座談会
大森静佳×染野太朗×永井祐×野口あや子×神野紗希
最終選考候補作/選考結果
【特集2 渡辺松男の世界】
新作73首「鏡と時間」
インタビュー
自選100首(『寒気氾濫』『泡宇宙の蛙』『歩く仏像』『けやき少年』『〈空き部屋〉』『自転車の籠の豚』『蝶』『きなげつの魚』『雨る』から)
大井学/佐々木朔/山下翔/榊原紘/浪江まき子/竹内亮
【特集3 2021年の収穫】
東直子
土岐友浩
水原紫苑
山田航
石川美南
松村正直
大塚真祐子
千葉聡
堂園昌彦
尾崎まゆみ
藪内亮輔
【作品】
飯田有子
立花開
菅原百合絵
橋爪志保
盛田志保子
佐藤モニカ
長屋琴璃
木ノ下葉子
大塚寅彦
高柳蕗子
飯田彩乃
阿波野巧也
手塚美楽
井戸川射子
【巻頭エッセイ】
水溜真由美「炭鉱労働を詠んだ歌」
【特別寄稿】
金子冬実「祖母、葛原妙子の思い出」
犬養楓「第六波、救急救命の前線で」
井上法子「身をふるはせて──今、私たちで読む田部君子」
嶋田さくらこ「うたつかいの十年史」

出版社情報

笹井宏之賞についてはまだ短歌の読み方がよくわからないのかあまり引っかからなかった。それは世代間ギャップというのもあるのだろう。なんかどうでもいい日常ばかりな気がして。勿論それが悪いことでもないのだが、世界的なニュースとか見てしまうと内向きになっているような。

他者性の欠如というのか、何か短歌を読むことで世界が維新されるような、例えば寺山修司のような短歌を読みたい。前世代的だろうか?

【歌人への手紙】佐藤弓生×廣野翔一

そんな中で誰もが闇の中に身を投じているように感じているらしいのは、【歌人への手紙】佐藤弓生×廣野翔一から感じられることなのだが、それはそういう孤独を持つことが当たり前になってしまっている世界なのか?とも感じる。少なくとも二人には共感する部分があるのだろう。そういう歌人を見つけることなのかと思う。佐藤弓生は女性だった。そういう部分を感じなかった。幻想短歌の人であるようだ。

夜の沼岸にわれなど立たせつつ秋は長考をまた繰り返す  廣野翔一

『角川短歌』2021年11月号「沼と秋の長考」

最初の「われ」を立たせたのは内なる自分かもしれず、下の句は「秋」が主語となって長考を促す。俳句的なのか?異邦人感覚という。

人工衛星群(サテライト)れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は  佐藤弓生

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

これは難解!

「地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見る」のであり、子規は前者を排し後者を推奨しているのである。つまり「上から俯瞰するような視点はリアリティーを欠くのでよろしくない」と言っているのだ。近代短歌が見る〈私〉と見られる〈世界〉の対峙を基本とするならば、両者は細部が観察可能な距離に位置しなくてはならない。あまり両者の距離が開くと、〈世界〉は〈私〉の眼から逃れる抽象的存在になってしまう。子規はこれを嫌ったのである。しかし近代短歌のセオリーから脱却せんと欲する人は、これを逆手に取ればよろしい。〈世界〉を地図的にはるか上空から俯瞰する視点を取れば、主客二元論はおのずと超克される。

そっか最近の歌は水平思考じゃなく垂直思考なのか?それが諦念のように感じてしまうのかもしれない。近代短歌から脱却できてないのか?

【特集1 第4回笹井宏之賞発表】

水平思考でもその内輪に入れないものを感じてしまうのかもしれない。よく読むと笹井宏之賞の受賞作も水平思考なのだ。極めて個人的な思考により普遍的な世界よりも小さな世界だと感じているのだ。『ノウゼンカズラ』は妹と犬という世界。家族の中の不穏な空気感なのか?違った。私と妹と犬が混ぜ合わさった世界だという。プライベート短歌。

ひと世代前の渡辺松男の世界は、あまりピンと来なかった。抽象的すぎるのか?これが垂直的な思考の短歌かもしれない。理系的。

【特集3 2021年の収穫】

これからの歌集の手引として。読みたいと思ったのは、平岡直子『短い髪も長い髪も炎』か。

呼吸することで世界に参加する
白い紙では飛行機を折る
花から花はしずかにうまれてゆきながら褒めてくれたら引き金を引く
夢・自衛隊の飛行機・ダイビング・銃弾 会いにゆくためなら

ロシアのウクライナ侵攻を連想させるが、たぶんアニメ世界とかの方か?それだとちょっと距離を置くかな。

どれほどの海にもぐれば英雄に見渡すかぎり出会えるだろう

個人の言葉が社会へ簒奪されてしまう世界にあって、共感性を破壊する言葉が引き金ということなのか?これは幻想短歌のように思えるが。

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した
三越のライオンみつけられなくて悲しいだった 悲しいだった
めをとじて この瞬間にしんでいく人がいるのを嘘だと思う

ウクライナ侵攻はリアリティがないのか、アニメの世界と同等のフィクションと考えているのか?むしろリアリティは三越のライオンを見つけられなかったことを三人称的に表現する。それは自身も虚構性的だということだろうか?

似合う、ってきみが笑ったものを買う 生きてることが冗談になる
熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたはニ度生きられる 

道化なのか。二首目は中原中也の月の詩を連想させる。

犬養楓「第六波、救急救命の前線で」

コロナ禍での社会詠と言われる短歌。切実さは伝わってくるのだが横の繋がりがとして感じられないのは自分の方に問題があるのか。その部分で平岡直子に近いのかもしれない。その中に留まらければならない理由なんてないはずなのに。

使命感で続けられる強さもなく 皆辞めないから辞めないでいる  『前線』

この歌はピンと来るな。同調圧力の世界なのかな。下の句が本心だと思う。

そういえばコロナ禍でも仕事を続けていたのは多分そんな為だが仕事を辞めるとなんで働いていられるのだろうと思う。そこまでの責任を負うべき世界なのか?

この短歌は逆の意味で考えさせられる。

井上法子「身をふるはせて──今、私たちで読む田部君子」

この号で一番共感を持てたのが田部君子の短歌の世界か。ミクロの世界だけどひたむきさがあるように感じる。

眞黄なる花粉にまみれ蜂一つ身をふるはせて蕋(しべ)をいでくる  田部君子

写生の歌だが蜂が花粉まみれで体を震わせている繊細な状態を詠んでいる。ここまで写生されると見事としか言いようがない。

井戸川射子『木を捨てようと』

どっかで名前を見たようなと思ったら芥川賞作家の人だった。詩人だというのは知っていたが短歌も詠んでいたとは。もしかしたら短歌→詩→小説というパターンなのかもしれない。短歌も一作で独立しているのではなく連作短歌として、『木を捨てようと』という短歌連作という感じか。物語になっていてわかりやすい。

「ほんまにさ捨てなああかんの?ここがもう砂漠になったわけでもないやん」
どんな木も人など待ってはおらず売り場は店員の繁栄の花壇
「クリスマスがもうすぐやから赤色にしたん?」いや季節は色じゃない
俺の帽子は頭しか守れずに雨でもおまえも木も濡れていて
マンションの裏でも置けば屍はきっと混ざっていずれ地面に
俺はこの木を捨てようとまだ湿る土ごと暗い袋の中へ


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