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昭和萬葉集の短歌
『短歌で読む 昭和感情史 』菅野匡夫(平凡社新書)
あの戦争の時代は、短歌の時代でもあった。夫を戦地へ送る“せつなさ”、故郷の妻や子への“いとおしさ”、戦局や生活のなかでの“よろこび”、そして“いかり”―。多くの人々が、心のつぶやきを、叫びを、短歌に託し、現代の私たちに残してくれた。歴史からこぼれ落ちた「感情」が、短歌とともに鮮やかに甦る。
目次
序章 短歌の時代
第1章 一九四一年十二月八日―日本、世界と戦う
第2章 真珠湾空爆とマレー進攻―一九四一年~
第3章 憂鬱なる時代の幕開き―一九二六~四一年
第4章 戦場と銃後の生活―一九四二年~
第5章 玉砕と大空襲―一九四四年~
第6章 原子爆弾と御前会議―一九四五年
第7章 一九四五年八月十五日―日本、敗れたり
『昭和萬葉集』の全集を記念しての1980年に鶴見和子のスピーチから「昭和感情史」という言葉が出た。
歴史は人間世界をトータルに理解するために、社会史。経済史・思想史など、いろいろな分野別に研究が試みられてきました。しかし、いまだ感情史、人間の心の歴史というのは、聞いたことがありません。
社会学者であるわたしにとって『昭和萬葉集』がありがたいのは、この本によって感情史(の可能性)が誕生したことです。感情史が加わることによって、はじめて人間をトータルに捉えることができるようになるとも言えます。
『昭和萬葉集』全集の完成の席(1980年)で鶴見和子のスピーチで社会史・経済史・哲学史のいわゆる公の文章から現れて来ない個人の感情という側面から短歌を読み解こうとするものである。叙情(感情)性は同調圧力となってそれが短歌の定型なので、日本人の保守的な面だと思って遠ざけていたが、「感情史」はそれぞれの時代に一般庶民が持った感情の変化を記録していて面白い。それは公文書ではないが、個人の記録が文学的に歴史になるということなのかと思う。様々な個人の感情が社会と繋がっているのが面白い。
感情というには叙情ということだと思うのだが。それまで短歌は音律によって感情を左右されるものだと警戒してきたが、こう抒情詩が本流となると無視もできなくなってきた(叙事詩とか社会詠だけ事実的に詠めばいいというものでもあるまい)。それで感情史としての短歌を知っておくのもいい。
食ふ草よ草よ草よと誰もがみな花見にと来て草を摘むなり 山田尚子
この歌は十九年の戦時中に作られた小学生六年の女子の歌。彼女はその後国会の速記記者になるのだが過労のために二十歳で亡くなったという。戦後の食糧難の時代の花見の歌だ。北朝鮮かよ、と思ってしまうが日本にそういう歴史があったのだと短歌は残していた。この歌を詠んだのが当時小学校六年の女子というから、驚く。花見の歌では西行に匹敵するかも。
大君は道のべの民のぬかづくしを見して 御手をば挙げたまひたり 柴谷武之祐(20)
短歌の歴史
わかくして
数人の父となりし友
子なきがごとく酔へばうたひき 石川啄木
石川啄木は難解な言葉を使わずに感情表現した歌人であり、彼を模倣する者も多かった。
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子
当時女性は感情をあらわにするものではないと嗜められたのだが(森鴎外の批判とか)、与謝野晶子(鳳晶子)は女性でも感情を堂々と歌ってみせた。
一九四一年十二月八日
日米が正に戦ふニュース頬こほばりて我は聴きゐつ 田中みゆき(27)
開戦をラジオ聴いた一般人は身震いするような緊張の中で硬直していた。
初戦の勝利報道に歓喜する人々
学校より帰りて居りしわが娘と正午 勝鬨かちどき に和しをはりけり 斎藤茂吉(59)
もの洗ふ水仕のをみな妻どもも涙して聞けり刻々のラジオ 吉川英治(49)
男も女も興奮した様子がわかる。ラジオが大本営そのままに意図的にニュースを流した(今のロシアとかイスラエルとか)。
天にして雲うちひらく朝日かげ真澄み晴れたるこの朗ら見よ 北原白秋(56)
灯火管制の灯の下で
国 興 おこる世代の 資料しろ と十二月八日の夕刊をたたみて保存す 清水芹畝(43)
新聞報道も大本営の発表通りの活字だけで写真とかは無かった。この日の新聞から天気予報がなくなる。敵国に情報を伝えるからと(そのぐらいの情報は独自に調べるだろう)。
暗幕をくぐり出て来し舗道にて師走八日の星座が低し 上村久子
女性の方が冷静なのか?
灯火管制の電車のなかに皇軍の迅き行を讃へる声す 小島彌太郎(19)
真珠湾攻撃
航空母艦「蒼龍」に乗船した佐藤完一(機関)特務大尉の連歌が臨場感ある戦争を伝えている。
今ぞ知る我が作戦の内容に思はず万歳と叫ぶ兵あり 佐藤完一
作戦は突然知らされ真珠湾攻撃をしたのだった。「リメンバー・パール・ハーバー」。日本は『トラ・トラ・トラ!』か。
突撃の電波は耳を劈き三千 浬外 布哇 の空より 佐藤完一
「ハワイ」は漢字で「布哇」と書くのか。わからんな。地名とか全部漢字だったのだろうか?
攻撃機還りたるらし通風筒に耳あてて聞く遠き爆音 佐藤完一
アメリカの戦死者2300人を超え、日本軍も未帰還機二十九機、戦死者五十五人。
艦首の方を日本と定めて姿勢を正し眼閉づれば涙垂り来る 佐藤完一
時来なば戦死と決めし我が部署は水準線下二・八 米 メートル 佐藤完
一
上の歌は別口で「アララギ」に投稿した短歌であり辞世の歌だったようだ。佐藤完一は半年後のミッドウェイ海戦で亡くなった。
マレー半島1,100㌔の戦い
ぬかるみの汀に兵は行きなやみ撃たば撃てよと叫ぶもをりぬ 佐々木昇
鉄帽を 冠 りしままにうつむきて日本兵の屍流るる 田金勇(29)
敗敵の捨去りし自動砲多くして捕虜二千五百と夕べ聞きたり 多田次郎
(28)
シンガポール遂に陥ちたり油煙のなかジョホールバル仮橋いまわが渡る 荒木芽生(22)
『戦場に架ける橋』だと思ったら違った(こっちはビルマだった)。
胸に下げしパインアプル缶に 戦友とも の 遺骨 納むと聞き涙とどまらず 宇沢甚五(29)
「アララギ」が多いのは虚子がそういう歌を推奨しているからだろうか。昭和天皇の即位の街頭パレードなんだが、平成天皇でも同じだな。
千住あたりの空の雲りより あらはれしグラフツェッペリンはおもむろに来る 堀内通孝(25)
「グラフツェッペリン」は「グラーフツェッペリン」で飛行船の創業者の伯爵の称号だった。この時代はモダンな感じの短歌なのか。「ツェッペリン」というと爆発する映像と「レッドツェッペリン」を思い出す。
こういう歌詞だったのか。イントロのギターばかり真似して歌詞はまったく無視していた。
ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ 芥川龍之介(35)
芥川が佐藤春夫に宛てた書簡に書き込まれていた短歌だという。「ぼんやりとした不安」は白泉の俳句に似ている。
国遠き上り来し父に見せむとて ねおんさいんの銀座を歩みぬ 中村華子
モボ・モガの時代の短歌。表通りは明るく、裏通りは暗い大正デモクラシーの時代。
モガがいる明るい銀座デートして 裏通りのモボぶらんぶらん やどかり
銀行の預金下げし来し人の列街かどをまがりなほつづくなり 山田武匡(28)
金融恐慌の取り付け騒ぎか。
雨ふれる本屋にあれば はいり来し少女買ひたり雑誌戦旗を 溝淵龍也
『戦旗』はプロレタリア文芸誌。当時は共産党弾圧などの社会で小林多喜二が惨殺されたのもこの時代。
はじめより憂鬱なる時代にいきたりしかば然かも感ぜずといふ人われよりも若き 土岐善麿
世代間ギャップの歌か。この時代の若者は明るい歌ばかりだみたいなボヤキか。土岐善麿はボヤキ短歌かもしれないな。
肉弾三勇士の映画見しならむ園児等はござをば巻きてそのまねをする 詠み人知らず
重臣閣僚殺戮されしかと知れながら一行も触れぬ新聞をつくる 亀山美明
2.26事件はその日は号外が配られたが、次の日には「掲載禁止」の通達が出され国民には知らせなかった。報道統制の時代。
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり 結城哀草果(41)
農村部の極貧状態の歌で2.26事件の原因ともなった。
長病みてひさに出で来し街並のかがやかしもよ手をかざし見る 下村波留女(29)
当時は結核が不治の病とされた。女郎屋がそうした巣窟だったとか。
とだえゐし機関銃の音たちまちに川岸近くまた起きにけり 高木園子(34)
日中戦争の始まりの歌。当時、北京で旅館を経営していた女将の歌。
撃ち撃ちて赤く焼けたる銃身に雪をかけつつなほし撃ちつぐ 今村憲(22)
二万余のいのちたちまち滅びしとわが驚く前のしかばねの山 三田澪人(44)
従軍記者が南京大虐殺を目撃した歌。
原子爆弾
目に入りぬ原子の実態か黄煙が大速力でクルクルまはりて過ぎぬ 正田篠枝(34)
正田篠枝は、原爆歌集『さんげ』を秘密出版した。それ以前は自省的な歌を詠んでいたのだが見たままを読むことで悲惨さを伝えようとした。
木端みぢん足踏むところなきなかに血まみれの顔父の顔なり 正田篠枝(34)
焼きへこむ弁当箱に骨を入れただこれのみが現実のもの
ソ連の対日宣戦布告
よしわれら髪を切るともかくし得ぬ乳房をもてばきびし行く先 中西恭子(26)
戦時の女性への性的虐待は今も行われているのだろう。
汝が命断たむてだてをもぐらせるこのむね知れや知らであれかし 岸野愛子(38)
「暴力によって貞操の危機が避けられないときは、みずから命を捨てよ」と教えられた母親が娘の命を絶とうとする歌。
ソ連参戦二日ののちに 夫が呉れしナルコンポン・スコポラミンの致死量 葛原妙子(38)
一九四五年八月一五日
聖断はくだりたまひてかしこくも 畏くあるか涙しながる 臣斎藤茂吉(63)
なおも茂吉は臣を名前の先に付けて忠誠を歌う。
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげいふ 土岐善麿(74)
再び土岐善麿(74)の歌はここでも言及される。それと対象的な俳句があった。
何もかもあつけらかんと西日中 万太郎(55)
解脱感というが短歌の叙情とは違う。