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シン・俳句レッスン48

紅葉通り。まだ紅葉には早いか?今日は俳句の歌を聞いてそれが面白かったので上げておく。友川カズキ『三鬼の喉笛』は西東三鬼の俳句を歌ったもの。俳句の暗唱にいいかもしれない。

柚子ありや素の風呂冷めゆく夜長かな

柚子が実っていても我が家ではただの風呂だから長風呂も冷えていくという句。まあ入浴剤は入れているのだが、ガス代が高くてなかなか沸かし直しが出来ないでいる。風呂に入れない人もいるから贅沢なんだが。

芭蕉表現「も」考

俳句の「も」は単なる並列だから使わないほうがいいということをどこかで聞いた覚えがあるが、芭蕉の使う「も」は注意が必要だという。

塚も動け我泣声は秋の風  松尾芭蕉

『おくのほそ道』

芭蕉が感情あらわに慟哭する句と評され有名なのだが、「我泣声は」は「秋の風」と連動しているのあって、「塚も動け」という慟哭する心と情景は切れがあり客観的な句だという解釈。「秋風」は和歌でもよく詠まれるもので、それを踏まえているという。

けふばかり人も年よれ初時雨  芭蕉

元禄五(1692)年

三年前に、芭蕉は同じような句を詠んでいる。

人々をしぐれよやどは寒くとも  芭蕉

「しぐれよ」と命令形なのは、理想の風雅の友として、芭蕉の希望だという。「しぐれ(自然)」と「やど」が対比されているのだ。その上の句も「しぐれ」よと言っているのだが、人が老いの心境になってという意味だという。それは相対している若い人に芭蕉が言っているのだが、風雅の心境を持って身も心も「初時雨」という。

旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

これも似たような句だが、芭蕉が旅人として「初しぐれ」に対峙している。

たなばたに

ねぶの木の葉ごしもいとへ星のかげ  芭蕉

「葉ごし」は木の葉を通してという意味で『新古今集』にも

和歌の浦を松の葉ごしに眺むれば梢によるあまのつり船  寂蓮法師

『新古今集 雑』

「ねぶの木」は合歓の木で眠りを連想させる。「いとへ」は厭へ。合歓の木と逢瀬の星の取り合わせが滑稽だというのである。合歓の木で夢見る二人は雅なのだが、それを「いとへ」と言ってしまうことは詠み手の側にいる人に言っているのである。覗き見して嫌らしいとかそんなことか?

そのままよ月もたのまじ息吹山  芭蕉

元禄二(1689)年

命令形+係助詞「も」は自分自身であれ他者であれ自然であれ、命令は即座に実現できないという。にもかかわらずそれは祈りにも似た願いとしての命令形だという。以上のことを受けて「も」~「じ」(否定形)となっている。これらは通常の並列の「も」の意味とは違い、願望・希求・意志を意味する。これらは本来の「も」の使用であるという。「息吹山」は歌枕。月が照らしてなくても伊吹山の姿は美しいという想像(月が出てないから想像するしかない伊吹山の姿なのである)しての命令形なのである。

ふるさとやへその緒になくとしのくれ
 よひのとしは空の名残りおしまむと、さけのみ、夜ふかして、元日ひるまでいねたり。
二日にもぬかりはせじな花のなる  はせを

貞享五(1688)年

旅人である芭蕉がふるさとにて越年しなければならなくなった情景を「へその緒になく」という諧謔(嘆き)なのだが、それによって漂泊の我が身を振り返り母を想う気持ちがあるという。二句目は「も」~「じ」の係り結びで二日目はそうした失敗をしないで新春を迎えたいという願いだという。

うたがふな潮の花も浦の春  芭蕉

元禄二年

西行の

過る春潮のみつより船出してなみの花をやさきにたつらむ

西行『山家集』

西行の歌にインスパイアされた句だという。「潮の花」はそれまで「波の花」と解釈されていたのだが、中七ではあえて「うしお」と読ませるのは西行の歌の「潮のみつより」は満ちていく潮だと考えていく。「命令形+も」は実際にはあり得なかった情景だが、浦の春が満ちて花が満開のような潮なのである。「う」の頭韻も効いている。

前衛俳句、その精神的嫡子の行方

川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から。

前半は金子兜太の社会性俳句「造形俳句」の批評(批判)で、造形というのは創作する者は誰でもやるもので、ことさら主張してもそれがどんな意味があるのか?前衛俳句言葉だけ先行していて中身がないような。そして金子兜太の「俳句の風景」と言ったことや「俳句の日常性」と言うことは伝統俳句に組み込まれていくのである。厳密なことはことはわからないが、それ以降の前衛俳句で俳句史に残るような作品はあったのだろうか?ということみたいだ。純粋にテキスト論として論じられているのは、金子兜太や高柳重信ら一部の俳人だけである。あとはどんぐりの背比べ(こんなことは言ってないが)で伝統俳句との差異化がないという。異化作用として、例えば先に上げた三鬼の俳句に友川カズキが曲を付けて歌った外部に与える影響はあるのか?ということだろう。

外部に影響を与えたのは芭蕉と子規だと思うがそのほかの俳人は俳句世界だけの内輪に留まっているのではないか(蕪村とか白泉いると思うが大雑把に見て)。

金子兜太

金子兜太は前衛俳句であるかどうかよりも戦争俳句で注目を浴びた。戦争俳句の第一人者と言ってもいいかもしれない。それは敗戦後も戦争俳句をつくり続けた。

水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る    

金子兜太『少年』

水脈は帰還する船の波しぶきが島から続いている。その果にトラック島で死んだ仲間の墓碑があるという意味だが、実際は原住民の酋長が日本人を恨んでいて墓碑を建てさせなかったらしい。「造形俳句」ということになるのかな。それとトラック島では荒くれ者が原住民の女をレイプしたとかでそうとう恨まれていたようだ。また米軍の占領時代になると米兵に女を斡旋して、日本人の若い兵士が犯されないようにしたとか。そういうことがあったという。悲惨な戦争の姿の一面だ。

死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む

金子兜太『少年』

「沢庵」が冬の季語。戦死したら海に撒いてくれというのが兵士たちの言葉でそれを思い続け噛み締めながら貧しい冷や飯時代を過ごしたという。

朝はじまる海に突込む鷗の死

『金子兜太句集』

俳句の伝統派の句集を見ると戦争のことがひとことも出てこない。それがすっぽり抜けて花鳥諷詠とかやっている。そういう態度にルサンチマンを感じたと言っている。俳壇の保守化に対する憤り。それが戦争がない時代でも「造形俳句」として心の中にはいつも戦争が巣食っているということで鷗が海に飛び込むのも特攻隊を思い出さずにはいられないという句で、現実の鷗は生のために魚を求めて突っ込むのだけど、その情景が戦争と重なったて見えてしまう。伝統俳句からはけっして出てこない句だという。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン

『金子兜太句集』

長崎での爆心地を避けてのマラソンと思ったら違った。イメージとして爆心地を走っていたランナーが突然湾曲した姿となって目に浮かんだということ。そういして辞書を調べたら「彎曲」という言葉がそのイメージだったと。~し~しのリフレイン。爆心地という広島・長崎以外にもいま起きている爆心地。そこでマラソンが行われているのは逃げる人々なのかもしれない。

麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな

『詩経國風』

「詩経國風」とは『詩経』は中国最古の漢詩で、その中の詩に呼応して詠んだ俳句だという。小林一茶がすでに試みており、それに兜太が倣ったもの。

「麦秋の野面は、夜ともなれば黒焦げの感じで、そのひろがりは不気味でさえある。私は原爆を投下された広島、長崎を直ちに想い、戦時中そこにいて、戦場の惨状を体験した赤道直下のトラック島を思っていた。二度とあんな悲惨なことがあってはならないとの願い。」

元となった『詩経』を知りたいのだが見つからない。

金子兜太戦争句もいいと思うのは限られてくる。変化してくるというか、一茶からのような気がしてきた。日常俳句も一茶から。一茶の「生きもの感覚」。

やれ打つな蝿が手をする足をする  一茶

蝿は手(前脚)で食べ物の感覚を察知するんで、敵がいないところでは手を年中磨いているという。一茶の観察眼の鋭さ。

花げしのふはつくやうな前歯哉  一茶

「花げし」は茄子の花。茄子の花が風に揺れるように、前歯がぐらつくという句。日常句だな。一茶は歯がなくても生きていけるということを実行した人だという。それでも65歳で亡くなっているんだが。当時としては長生きだったのか?

十ばかり屁を捨てに出る夜長かな  一茶

「おなら」は生理現象だから出したいときに出す。それでも部屋に閉じこもってするより外に出てしたいという。「十ばかり」だから、かなり溜め込んでいた。川柳みたいだな。「夜長」という季語があるから俳句なのであろうけど。

蚤どもが夜永だらうぞ淋しかろ  一茶

アメリカ人の俳句を世界に広めたP.H.プライスが取り上げた一茶の代表句。小さな、嫌われものの生物にもこころを寄せる一茶。一茶は欧米で大変人気があるという。蝿とか蚤とかおならとか日本人受けはしないんだろうな。むしろ欧米の自然主義たちに人気があるのか。中国でも人気が高いという。

「一茶に兜太を重ねて」渡辺誠一郎

「存在者」というキーワード。そのままで生きている人間が一茶なのか?

ともかくもあなた任せのとしの春  一茶

一茶は生涯農民という立場ではなかった。俳諧(文筆)業で生きてきた。晩年になって漂泊が難しくなると定住したが、それでも子供を産み子供を死なせ、病に苦しみ、よりどころを阿弥陀に求める。無常観が出ている句かもしれない。

六十年踊る夜もなく過ごしけり  一茶

そんな一茶の覚悟が「荒凡夫」という自覚であった。金子兜太はこの「荒凡夫」という生き方に共感した。そのなかに「生きもの感覚」があった。それがアニミズムという境地を開かせる。

わたしのなかではむしろ「自由」に近い。何ものにもとらわれず、欲望のままに生きる平凡な男、そういうふうに生かしてくれ、と如来様にお願いした

金子兜太『他界』

ただ一茶は農民としての贖罪の気持ちがあって故郷には帰れなかったが、農村に定住する。その気持ちが金子兜太「定住漂泊」の考えなのか?

ふるさとの人たちがそこから生まれて、そこを耕して生き、やがてそこに還っていく〈土〉─その〈ふるさとの土〉だけが、自分の救いなのだという、自分自身でもそれとわからぬほどの心奥の直観が、一茶に帰郷定住を決定させた

金子兜太「小林一茶──〈漂鳥〉の俳人」

一茶と兜太の違いは、一茶がもがき衰えていくなかですがったのが〈土〉という定住だった。それは如来にすがりつく姿なのである。兜太は虚子の権威を否定しながが定住することによって権威的になっていく。それは生まれ故郷に石碑が建てられたり、死後神格化されていくようになっていった。それは兜太が目的に進むような「存在者」であったのに対して一茶はやはり「漂泊者」であったのだ。その違いは大きい。

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