マリー・アントワネットの首切りから始まる映画
『ナポレオン』(2023年製作/158分/PG12/アメリカ)【監督】リドリー・スコット 【出演】ホアキン・フェニックス/ヴァネッサ・カービー/タハール・ラヒム
北野武『首』と公開時期も重なってどっちを見ようか悩む人もいると思うが、正統的大河ドラマを見たいのなら『ナポレオン』で、今までの大河ドラマには辟易している人は『首』を見るのがいいかと。それでも映画の評価となるとどっちもどっちかな。解釈のポイントは、どちらもそれまでの英雄像の武将も一人の人間だったということなんだが、戦闘シーンが上手く配置されている『ナポレオン』の方がアクション映画としては面白いとは思うが、長すぎというのはあるかもしれない。
リドリー・スコットはこの映画の前にローマ時代の皇帝の映画『グラディエーター』を撮っていた。その続きとしての『ナポレオン』なのだが、ローマ時代の英雄像と変らない。それを現実に引き戻してナポレオンの弱さを「ジョーカー」のホアキン・フェニックスで描いているのだが、ホアキン・フェニックスも「ジョーカー」らしくもなく、情けない男になっていた。むしろそれに対になる妻ジョゼフィーヌ役のバネッサ・カービーの方が面白いと思ったほどだ。
ジョゼフィーヌはナポレオンを性的魅力で誘惑するのだが、子宝に恵まれない。それがナポレオンの世襲性政治を表しているのだが、革命と言っても反保守的なのだった。そんなナポレオンが支持されたのも国民という大衆政治(ポピュリズム)であり、それを裏で操っている者がいたと思うのだが、この映画ではジョゼフィーヌの愛欲ということになるのだった。
ただジョゼフィーヌは子供が出来ない女性であるがゆえに離縁させられる。そこがどの戦闘シーンよりも見所だと思うのだが、映画ではそれほど目立つシーンでもなかった。やはり求めるものは戦闘シーンになってしまうので、それは今のTVと同じなのかなと思ってしまった。ナポレオンがけっして批判されることがなかったというのではなく新聞などはスキャンダラスのナポレオン記事も書いている。ただそれがますますナポレオン人気になっていく大衆の欲望というもの。それは大衆もジョゼフィーヌのようなわがままの女性を従わせたいのであった。オープニングでこの時代の一番のわがまま娘であるマリー・アントワネットのギロチンから始まるのもそのことの象徴であったのだ。彼女のあとを継承していくのがジョゼフィーヌであったのだ。ナポレオンはその相手役の滑稽な男にしか過ぎなかった。
英雄譚が恋愛ドラマに堕ちていくときの滑稽さの中にいる男の映画だった。マリー・アントワネットの首切りという始まりは、北野武『首』と繋がるのかもしれない。
史実と違うというレビューをした人がいたが、最近の解釈というかむしろマルクスの解釈『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に近いかと思う。「ナポレオン」が英雄とされるのはローマ時代の皇帝のようだし、それがヒトラーだと憎悪の対象になりナポレオンだと英雄に祭り上げられるポピュリズム批判の映画なのだ。
ジョゼフィーヌはマルティニーク島出身の貴族なのである。ナポレオンも植民地であったイタリアのコルシカ島出身である。それはフランスの外部であり、例えばローマ帝国に憧れたナポレオンはシーザーやアントニウスが愛人としたクレオパトラの魅力に取り憑かれたのを連想させる。