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思考停止になる裁判制度

『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 』森達也(講談社現代新書)

Uは私だ。植松聖を不気味と感じる私たち一人ひとりの心に、彼と同じ「命の選別を当たり前と思う」意識が眠ってはいやしないか?
差別意識とは少し異なる、全体主義にもつながる機械的な何かが。
「A」「FAKE」「i ‐新聞記者ドキュメント-」の森達也が、精神科医やジャーナリストらと語りあい、悩み、悶えながら、「人間の本質」に迫った、渾身の論考!

相模原殺傷事件は、事件の深層が何も見えないまま、死刑制度の中で加害者が機械的に抹消されて行った。親鸞『歎異抄』に業縁という言葉がある。

さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし

森達也は、業縁を「環境設定」と翻訳し、その環境が揃えば誰でも加害者に成りうる社会に警告を与える。森達也の後追いルポルタージュを読むことによって見えてくるもの。それは日本の社会の仕組みの闇の様相(ブラック・ボックス)だ。

序章:面会室(事件のあらまし)

植松聖の死刑が確定したのが2020年。すでにそのこともにも誰も見向きもしない。マスコミは被害者側の凄惨な事件をスプラッター映画のように伝えた。後に事件の深層を顧みることはなく、同じような犯罪が行われていく。事件は闇の中に葬られて、平和な日本社会になっていくのか?

植松聖は安倍政権に手紙を出したことが明らかにされた。直接渡すのは無理だったので、当時の衆議院議長宛に送られる。それも守衛に直接手渡された。

その手紙の内容は誰が読んでもおかしなもので、「イルミナティカード」に書かれた暗号で、神に代わって成敗するようなことが書かれていた。明らかにフィクション(妄想)の住人だ。そして優生思想だ言われたが、その手紙が出されたのが5ヶ月前に、Uは官邸から通報されて精神病院に入院させらていた。すでにその時にマルセイ(警察用語で精神異常者)扱いされていたのだ。通常ならば、心神喪失や耗弱で不起訴になる事件だという。

森達也は裁判の過程で、オウム真理教麻原彰晃裁判と似た裁判に衝撃を受ける。麻原彰晃裁判での異常行動(排便していたり意味不明の言論を喚いたり)があるにも関わらず、裁判で動機解明もなく死刑という目標に向かって司法がオートマチックに進んで行った。明らかに裁判をする訴訟能力のある状態ではなく、一時的に入院治療が必要だったのだ。

心身喪失で実刑には出来ないという刑法があるにもかかわらずそれは実質的には無視されていく。世間が犯罪者の処罰を望んでいるからなのか?事件は解明することなく実行犯は抹殺されて行く。

それはオウム真理教裁判でも過去の発達障害者事件でも同じだ。機械的な死刑制度の中の裁判という「架空のオペラ」。この本で扱われているのは、個人とシステムの問題なのだ。

オウム裁判では、被害者の感情を元にマスコミ報道や本が出された。有名なところでは、村上春樹の本とか。森達也は逆の視点に立って、加害者側の中に入って事件の全容を明らかにしようとするが、そのことがTVをではタブーになっていた。被害者感情という流れの中で、善悪を分別し、悪は抹消されれば社会は平和なのだというシステムに疑いを持つ。

その最大なものが日本における死刑制度だという。「ブラックボックス」は権力側に都合よく解釈され、悪は抹消すればいいという圧政だけが生まれていくだろう。それが上手く言っている保証は、何もないのだ。絶えず同じ事件が繰り返される。社会に悪影響を与えるものは抹殺すればいいという問題でもなかった。

それは三権分立が言われているにも関わらず司法が時の権力に寄り添い、議会も独裁者に支配される現象(社会)が世界的に起きていること通じているのか?

Uが尊敬するのはトランプ元大統領と安倍首相だった。その思想の中で役立たずな障害者は、殺しても構わないと思ったのだろうか?短絡的な思考によって殺人を犯す者は、死刑によって抹殺される。その社会システムの闇(ブラック・ボックス)を明らかにしたい。しかし、それは「パンドラの箱」でもあるかもしれない。

第一章 宮崎、麻原、植松(吉岡忍との対話)

吉岡忍は、『M/世界の、憂鬱な先端』で宮崎勤の幼女殺人事件のルポルタージュを書いたノンフィクション作家。森達也の先輩作家。この本の題名も吉岡の本の題名を引き継いでいた。

宮崎勤裁判で、三つの精神鑑定が提出され、裁判は精神異常か正常かが争われた。ここでいう正常とは、責任能力があるという判断で、その報告書が3冊分量も1300ページもあるものを吉岡忍は調べて、杜撰な鑑定が行われていると意義を唱えた。日本の犯罪有罪率は99%以上。起訴されたらそのまま刑の確定がなされる。その最高刑が死刑だ。しかし、この中には杜撰な捜査や捏造による冤罪も過去にはあった。日本の死刑制度の問題は冤罪は晴らされることが少なく抹消されていくことだという。最近の裁判での簡略化によって、訴訟裁判も短くなり、死刑が実行されていく。

その鑑定書もなおざりなものが多く、検察側のシナリオに沿っていく。麻原の精神は正常であり裁判を逃れるための詐病であったとされた。拘禁から来る精神異常は治療すれば回復するものであり、それを怠った。すでに死刑の訴状に載せられたシステムの中での裁判だったとする。

そのような裁判になっていくのが宮崎勤の裁判であったとする。裁判は、御用精神科医によって空っぽのまま進められていく。当時の状況を見るとメディアによって裁判が左右されている。80年代から始まる劇場型裁判は劇場型犯罪の幕開けだったのか?

最後に吉岡忍の言葉。

「精神科医たちも、自分たちの努力が報われないと知っているから本気で鑑定しない。結果として動機や背景も調べず、1人殺したら有期刑、あるいは殺したのは2人だけど悪質だから死刑、3人殺したら問答無用で死刑、と相場で決まる。ならば裁判なんていらないじゃん。裁判が儀式になっている。儀式が言い過ぎなら統計学だよ」

第二章 発達障害(郡司真子との対話)

郡司真子は、元アナウンサーでジャーナリスト。自身の性被害の過去を持ちジェンダー問題に詳しい。また発達障害の子供を抱える自身の問題として発達障害問題を扱っている。

発達障害とは何か?発達障害支援法が拡がった2005年以降、多動性障害(ADHD)や学習障害(LD)は認知され、著名人やアメリカのスターが発達障害を表明していく。ただ日本ではそこまでは行かないが発達障害と言ってもグラデーションがあり、正常/異常ではっきり分けられるものでもない。

事実森達也は自身を発達障害と認識しているが、日本で普通に暮らしていける。誰の中にも発達障害的なものはあり、それは日本では幼さと言われることもある。

そして問題はこうした犯罪が起きるたびに発達障害とされ、子供を抱える親たちは社会に恐怖を感じるという。そして、彼らを取り巻く状況は「自己責任」という枷だ。

知的障害にはスペクトラム(グラデーション)があるという。表現者は社会の中でその軋轢を感じ、自らを言語化して芸術活動に繋げる。日本ではその支援のシステムが希薄なので、一度ドロップアウトすると立ち上がれず周囲の怨念だけが強まっていく。自分たちが抑圧されている原因を他者に向けて攻撃する。

自己愛性パーソナル障害?「性格の歪、権力思考、自分大好き、嘘つき、他者への尊厳はない」最近の犯罪者は「自己愛性パーソナル障害」と判断され責任能力に支障なしとされる。

妄想を現実と思い込んでしまう。「妄想」と「思想」の境界線は?ニーチェの哲学問題。Uも事件後ニーチェに関心を寄せていたという。

Uが問題としたのは「役に立たない人」ではなくて「意思の疎通が出来ない人(心失者)」だった。新聞報道は、優生思想を上げ連ねたが植松はそれを否定していた。介護施設での意思疎通できない人は、介護施設の問題として浮上するが、被害者の会などはそれは伏せてしまう。意識活動がなく、家族から離さされ隔離されている状態。

ただUが自らそれを判断していたという単純な仕分けだった。寝起きに声をかけて答えられるか?

そうした介護現場でのあり方は問題とされることがなかったのか?介護施設での暴力介護や虐待が問題として浮上してきた。介護施設の問題が浮上して知事は調査委員会を設置したが中途で自民党議員の反対にあって頓挫していく。

例えば出生前診断による仕分けで中絶が安易に出来る社会。障害者を生んでしまったら個人の自己責任で育たなければならない恐怖。そうした家族への問題も含んで発達障害を支援する制度がなければ社会からドロップアウトすることへの煩悶をどこに向ければいいのか?

第三章 裁判員裁判(篠田博之との対話)

篠田博之は『創』編集長であり、オウム取材でも森達也の協力者として、今回のUとの面談や事件へのアプローチを担っている。

死刑判決の結審までの期間は、相模原事件は2ヶ月、和歌山カレー事件は3年半、宮崎事件が7年、麻原彰晃は複合裁判で10年、永山則夫は中断もあるが10年かかった。最近はでは審理期間が縮まっているのは、明らかに裁判員裁判の影響があるという。

裁判の専門家ではない一般市民は仕事もあり、拘束時間も限られた中で、死判決をださなければならない。最初から無理があるのだ。それが死刑判決(アメリカでは有罪無罪は陪審員が決めるが死刑のような量刑は裁判官が決める)となると裁判員の負担は増していくばかりなのだ。裁判の迅速化が求められる背景は、安易に白黒判断せねばならない経済効率があるのだろうか?

この裁判でも2人の裁判員が辞任した。彼らが辞任した背景は伝えられない。守秘義務があるからだ。実際に死刑を言い渡すシーンを想像するなら、それは各個人に与える負担は相当のものである。しかし、それが求められる。結果として善悪二分法で判断する者が増えていく。そうした教育が行われる。自身で考えるよりもマニュアルに沿って歯車として推し進めていくことになる。それが国民の義務とされているのだ。国家に奉仕する国民の構図。国民に奉仕するのが国家ではないのか?いつの間にかこの国は逆転していた。

「パンドラの箱」を開けてはいけない判決後2ヶ月『パンドラの箱は閉じられたのか──相模原殺傷事件は終わっていない』を出版したが、被害者家族から差し止め署名を出された。篠田は言う。

この事件については、植松被告の発言を取り上げること自体が障害者を傷つけ、彼の差別思想を拡散するものだいう批判がなされ、出版中止を求める署名活動も行われている。それでもなぜそれに取り組もうとしたかと言うと、障害を持った人がいまだに事件の恐怖にかられている一方で、それ以外の人たちは事件そのものをわすれつつあるという風化が進んでいる現実に強い危機感を抱いたからだ。

第四章 精神鑑定(松本俊彦との対話)

松本俊彦は、裁判で精神鑑定をしたことがある精神科医。裁判では白黒が求められる。精神鑑定をすると心身喪失や耗弱と診断せざる得ない状況があるが、司法でのバイアス(有罪を求める)があるので精神鑑定をするリスクが鑑定医にはある。小さな事件では、心身喪失は出しやすいが重大事件は世論の力が働く。

かつてのペルー人の殺害事件では、ペルーでは死刑はないので外交官からの要請(外交問題)があったために心身喪失が認められて無期懲役となった例がある。日本人ならば完全に死刑になったはずだという。

「人格障害」という言葉は、裁判上でどちらにも解釈される言葉でいて、実際は何も語っていない。普通じゃない状態は、殺人事件では当たり前なので実質的に「人格障害」という言葉で冷酷で残忍な犯人像を描く。犯罪を犯して時点で有罪という思考はそこにある。

そのカテゴライズ(グラデーション)があるのは事実だが、精神異常は治療できるとして、そのことが無罪に繋がるわけではない。また人間の意識は変化していくもので、検査時と犯行時でも違うし、拘束状態でも変わっていく。

人は人を簡単に殺せない。その異常心理にある場合、環境設定や社会的な生育状況が問題となるのは事実だが、現在の裁判ではそこまでは求められいない。いかにシステム内で刑を裁くかが問題となるのだ。処理システムとしての裁判制度。

裁判員制度が導入されたことでわかりやすさ求められるようになる。それは白黒付ける判断材料しか求められいない。人の精神状態に立ち入る余裕はないのである。精神鑑定もA4用紙で2,3枚にまとめるようになってしまった。

第五章 新聞報道(石川泰大との対話)

石原泰大は神奈川新聞の記者。事件の顛末を追っていくマスコミは少ない。事件を劇画のように伝えたあとは、次の劇画のようなニュースが待っている。世間の興味の対象でしかニュースにはならない。

後追い報道の中で出てきた障害者施設での虐待やイジメの実態。それは少数のジャーナリストだが報道しているところもある。それで県知事も調査委員会を作ったのだ。しかし、それは家族会や自民党議員などの横槍で中止せざる得なかった。

社会には弱者を守るということもあるが、その弱者の上に立つ機関のシステム上の問題もある。個人では面倒見られない身体障害者は、施設に任せきりになる。それによって救われる家族もいるのだ。障害者施設の問題の複雑さは、理念を持って入ってきた者でも打ち砕かれる現実が待っているということだ。

Uもそうした理想を持って就職したはずだった。施設での勤務経験が犯罪につながったとは、誰も認めたくないことなのだ。問題のあった施設では山の中で閉じられた空間に存在している。そういう施設の建設反対問題もあるのだろう。このような事件になるとますます閉鎖的にならざる得ない状況なのである。それは裁判では解決出来ないことである。

植松聖により知的障害者19人が殺害された相模原事件の深層に迫る! https://news.kodansha.co.jp/8649



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