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シン・現代詩レッスン110

花水『夜景樹』

『現代詩手帖2024年11月号』特集「新鋭詩集2024 作品特集」から。
最初読んだときは世代間ギャップなのかと思ったが、「現代詩」というものにも疎かった。最果タヒ『夜空は最高密度の青色だ』が導入というとだけで彼女の詩を読んでみる。

タイトルの「夜景樹」というのはガス灯のことだ。小樽の情景を描いた抒情詩だろうか?小樽といえば左川ちかがいた。なんとなく影響を受けているような。そうすると意識の流れだろうか。散文詩でモダンな感じの詩。

螢火のような灯りが街に灯っていく、ガス灯の優しい温かみの薄膜、小樽港を一艘の船がすううと沖へでていく、桃色の長い雲が水平線のみずいろと混じる、半島のかたち、石狩湾のかたち、今までの、わたしのかたちはいつの間に無くなって、船も深い青へと溶け出
した、

読点だけで繋いでいく息の長いセンテンス。九行まで句読点はない文章でこれは意識の流れの手法である。次々に意識にのぼる情景を描いていくのだがシュルレアリスムよりは一つの意識によってまとめられている。それがガス灯であり、わたしの意識なのだろう。「わたしのかたちはいつの間に無くなって」は意識が肥大していく様、ここでは声だけの言霊の世界だということだ。小樽は行ったことがないのだが、ガス灯の揺れと船の揺れが朧の中に浮かぶようである。それは真夜中の海の青であり、最果タヒなら「最高密度の青色だ」と言ったかもしれない。いや朧の海の色に呑み込まれてゆく情景だろうか。

────夜景樹となっていく────
   ひとつ、光の実りが、遥か沖、揺れながら、浮かんでいる、一匹のはぐれた螢が、どこにいるともしれない、仲間を探すように光を点滅させている。

─線で強調されたガス灯が夜景樹なのだが、すべての情景が朧な海に沈みそうになるのを繋げているかのような象徴なのだと思う。螢は、相米慎二監督の『ホタル』という映画があったが、「小樽」とも通じるような音韻だ。「小樽の女」とか歌があったような。

悪ノリしてしまった。映画の方の相米慎二『ホタル』だな。勘違いだった。相米慎二監督『風花』が北海道ロケの映画だった。港の映画だと『ラブホテル 』が横浜の港で印象深いのだ。


オルゴールの、夜の 櫛歯くしば を小針で弾くように、使い古した大切なBaccaratのグラスに、真新しいひびが入ったのはその頃だった、みずの音色がひとつ響いた気がして、その姿も、闇に青白く消えた。

最終章、「オルゴールの、夜の櫛歯を小針で弾くように」の比喩はいいと思う。それまで朧な波音に溶け込んでいくような感じだったのが、ここでオルゴールの音という強烈なイメージを持ってくる。「小針で弾くように」なのだ。ただその後の「Baccaratのグラス」はちょっと馴染めなかった。急に高級コールガールかよ、みたいな。たぶん、水商売系だと思ってしまうのは相米慎二の影響かもしれない(わたしが)。

海月

横浜の高層ホテルの点滅する部屋で、女はベッドで浮き沈みし、私は事後のあとで煙草に火を付ける「ホタル族」なるものに、妻に文句を言われながらベランダで眺めていた霧笛の船舶を思い浮かべながら、時雨れているベランダから部屋に戻ったときは、すでに女は赤いドレスを着ていて、山口百恵なんかの歌を口ずさんでいた。

そんな映画があったっけ?と女はいい、 夢現 ゆめうつつに再現してみせるのは超過料金込みの夜の女だからで、私はなおざりの返事をして、また酒を注ぎ、グラスの向こうの海の点滅を眺めては夢の中に落ちるのだった。

クラゲは水に母と海に月だとどっちがいいかな?と女が問ひ、私は海に月だろうと答えたがそれは妻を思い出したくなかったからで、窓の外の月を眺めながら、逆に月に見られているのかもしれないとカーテンを閉じ、明方までぐったり横になったつもりが海に水母のごとく浮いていた夢をみている。

やどかりの詩


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