観られる女性側からの映画論
『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』(2022年/カラー/107分)製作・監督:ニナ・メンケス 出演:リアノン・アーロンズ、ロザンナ・アークエット、キャサリン・ハードウィック
映画の映像文法論の講義を観ているようで面白かった。映画(ハリウッドを中心にして)がいかに「Male Gaze=男性のまなざし」に満ちているかを検証するニナ・メンケスの映画論といような映画。ハリウッドでプロデューサーが映画関係の女性にセクハラを働いた事件でも問題になったが映画産業がほとんど白人男性を中心とした家父長制的な構造であり、それは有名監督の映像からも検証できるという(ヒッチコックとかタランティーノの映画で説明している)。それは女性は絶えず観られる客体として、男たちの視線を浴びる映像で満ちているという。女性を客体(物化)してそこに男が自由に出来る妄想の中で、レイプシーンやらエロシーンが作られていた。その映像を当たり前のように観せられるから、男女間の心理としてそれが現実なんだと思わせている。つまり女性は男の性欲を満足させるための存在であり、また映画作りでもそうした性差の中にある産業ということだ。
そこでは新人女優が意味もなく裸にされたり、恥ずかしいとは言えずにそれを仕事として従属してしまうことは日本でも近年問題と成っていることであった。そのような映画が当たり前のように作られそれが人間の欲望のように喧伝されるのは、その中で苦しんでいる女性たちがいたということであり、そういうのはみなすべき流れはハリウッド(ハリウッドで告発されたから問題化されて改善されてきているのかもしれない)でも起きているのだろう。
あたりまえのようにそういう映画を観てきた世代はそれがエロス表現で極めて芸術作品のように思わされているが、それはいままでに考えてこなかっただろうか?確かに映像表現としてヒッチコックの偉大さばかりが言われてそういう部分には目を閉じていた部分はあるかもしれない。女性監督が増えて彼女たちが映像表現としていかに観客を楽しませるかという問題もあるのかもしれない。それはいままで不快な表現を受け入れてきた映画産業の構造的な問題でもあり、映画が見せる視覚芸術ということから、モデルとしての客体をどう考えてきたのかというのがあるのだろう。今はそういう時代ではないのだ。女性が半分以上いて、彼女らが観客となるならば当然の問題として考えていかなければならない問題なのかもしれない。権威として、それを批評できないあり方がどこの世界でも問題なのであろう。
そうだよな、そういう刷り込みがあるからいやらしい視線で女性をみてしまうのかもしれなかった。それが性欲とばかり思い込まされていることもあるのかもしれない。