雲の会立ち上る夕雲大蛇
今日の夕雲はなかなかいいのではないか?大蛇のようにも見える。
句跨りのテクニック。中七が「立ち上がる夕」で切れると「雲大蛇(くもおろち)」なのだ。記念すべき第一句か?
深夜に起きてnote作業。冷房がない部屋なので深夜が勝負時だった。思いつくまま殴り書き。そうすると誤字脱字も多いのだが、気にしない。
その積もりだったが指摘されると考えてしまう。人間だから間違いがあると思うのは甘えか?そもそもこのnoteは自分のボケ防止のための健忘録として始めたものである。完成された文章でないこともわかっている。それを教育的指導(上から目線)で訂正を入れられるのはいい気持ちがしない。せっかくの気分に水をさされた感じなのである。少なくともレッスンと歌っているのだから間違えることはあるのである。最初から完成された人間はいない。そもそも自分は完成されるのであろうか?こうした言葉も諸行無常と漂っていくものなのだ。
図書館に二冊返却。北王路翼の本を借りる。グーグルは北王子と変換するので困る。北王路翼と出てこないのだ。俳句界では有名人なので名前を間違えるとはけしからんということなのだ。ただ人名は誤変換も多いのだ。経験した人はわかると思うが、うっかりすると見逃してしまう。それでも気になったので再び北王路翼『廃人』を借りた。「俳人」と「廃人」の掛詞なのか?そういうアウトロー俳句の人なのである。誤変換ぐらいでうだうだ言う人なのか?誤解されそうなんだが北大路翼がコメントしてきたわけではない。俳句の好きな人で愛の鞭なんだろうが、ともかくそういう上から目線がたまらなく嫌な気分にさせるのである。
そもそも北大路翼は人間なんだという宣言する俳人なのだ。だから手書きがいいという。手書きなら間違っても誠意は伝わるだろうか?「縛りつけるからそこに反発力が生まれるのだ」と書いている人である。今日の一句。川柳か?
読書は大江健三郎『憂い顔の童子』。100p.ぐらいまで。『取り替え子(チェンジリング)』の続編ということだった。古義人があっちこっちから批判を受けるのだが外国から来た女性研究者とともに「ドン・キホーテ」のように闘っていくメタフィクション。実際に大江健三郎は本多勝一とか江藤淳とかに批判されていたので、それを逆にメタフィクションとして描いたのである。
雲の会立ち上げ。だから今日の表題は雲の一句にした。
映画も雲をつかむようなストーリーの映画だった。
俳句レッスンと短歌レッスンは相変わらず滞っている。
今日は「遠野」旅行記と「遠野博物館レポート」だな。暑いからこの時間に。