シン・俳句レッスン158
文芸選評
選者、佐藤文香。若い。短歌じゃなく俳句というのが珍しいと思ったら、詩も短歌もありの人だった。俳人一本っていうのは難しい?
アンドリュー・ワイエスの絵を見ての句。そのままじゃわからんよな。説明を受けてもわからん。
こっちは句会での「栗」の兼題。まあまだわかりやすいかな。栗を食べるとき、 毬いが や固い皮や渋皮を剥いて、最後に甘い栗が食べらられるという。それが栗の甘い秘密の部分という俳句。さすがだ。
NHK俳句
ゲストが夢枕獏というのが面白い。夏井いつきに弟子筋なのだが、内緒で夏井いつきの投稿に俳句を出していたが一年間とられなかったという話。俳句とはそういうもんなんだろうな。気休めにはならんけど。
こういう句じゃなきゃダメなんだよな。湯豆腐と虚数という二物衝突。
栗山からの帰り道、日が落ちて毬を踏むような荒い日だったという句。荒らしがりっしんべんなので、心の中を読んだという。イメージの俳句なのか?
NHK俳句(テキスト)
bookメーターでブックウォーカーのポイントがプレゼントされたので電子書籍『NHK 俳句 2024年 10月号』を購入した。まあ、俳句制作にはこれ以上のテキストはないだろうと思うのだが、ここに出てくる句はあまり面白くないと感じてしまう。
最初にやっぱ秋の味覚の俳句を紹介していた。
「自然薯」って秋の季語なのか?芋関係は秋のようだ。
夏井いつきの俳句ドリル
「木漏れ日」は季語ではないので季語が必要とのこと。「麦」は夏の季語で「ビール」も夏の季語なんだが、「麦の泡」としたから失格だという。こういうところが感じればいいじゃないかと思ってしまう。「麦の泡」でビールをイメージするのは、作者だけではあるまい。「笑顔が注ぐ」がコマーシャル的だが。まあ、一番の問題点「読み手に伝わるか?」がいつも出来てないのだと思う。
名句鑑賞
これも芭蕉が「野ざらし紀行」で甲斐の句を詠んでいるのを知らないとなんのこっちゃ分からない。俳句はそういう積み重ね(過去の名句)などがものを言うんだよな。「甲斐」という漢字を出すのに「甲斐バンド」と入れなきゃ出ない悲しさ。「裏切りの街角」だな。
誌上句合で「鳥威し」の「し」の送り仮名はない方がいいと村上鞆彦が言っているぞ。先日の句会で「票固」と書いたら読めないと言われたが。そういうのも人によって違うから悩んでしまう。「鳥威」の方が引き締まるということだ。ならなおさら、「票固」だろうが。こんなところで鬱憤を晴らしても仕方がないのだが。
オノマトペ解剖辞典
濁音で始まる言葉はぞんざいな感じを与えるということだ。破裂音の方が趣深いのかな。「ばらばら降る雨」「ぱらぱら降る雨」。情緒の差か。オノマトペの濁音はユーモアを感じさせるものもある。「ぶうらぶら」とか「ぼくぼく」など。
大道寺将司
『棺一基 大道寺将司全句集』から。俳句の坂口弘と比べるとあまり事件のことは詠んでない。俳句だけど自然に託して自己中な感じがするのは、他者がいないからだろうか?
一九九七年
「ちちろ虫」は蟋蟀のこと。ちちろという鳴き声が俳句として使われるのが多いのか。声の句。「過激派のままにてよろし」は反省もない句だな。
この句も「死刑囚」の英雄的な感じは「空高く」の季語に伺われる。
牢獄が狼的感情を呼び覚ますのか?
一九九八年
新年の句だろうか。けっこう元気なのか。
寒暮に詠嘆のかなは「大逆の刑徒」に重ねているからだろうか。
寒冷表現が多いのだが、それと対になる「メンチカツ」。
「斑雪」は使ってみたい季語。春の暖かさも感じる。
前の句と関連しているのか。
ラジオか誰か歌っているのか。誰か歌っているのイメージだな。その昔ポール・マッカートニーが薬物で逮捕されたときに励ますために「イエスタデイ」を本人か囚人が歌ったということがニュースになった。
現代俳句
「わたしの1句」(令和6年9月号 福本弘明)とその鑑賞 井口時男
今月号の小雑誌が見当たらない。そこに自分の句が掲載されていたんだけど(新人的なみたいな、誰でも掲載される)。仕方がないネット掲載の句を見ていくか(傾向と対策というような)。
写真俳句なので、彼岸花と秋蝶が詠まれてないので、何をときめいているのかわからない。それはあの世が近づいたことだろうか?十月は象徴として弱い気がする。むしろ来年ではないのか?十月になれば来年のカレンダーも出る頃だし、新しいことを始めたくなる季節なのかもしれない。それが下五の「ときめいて」なのだろう。「ときめいて」で重たい(曼珠沙華のイメージ)句から蝶が羽ばたくような句になったということだ。
新作現代俳句十句とその鑑賞 加藤法子
一句鑑賞だが、なかなかここまでは読めない。訓練が必要なんだろうな。句会でコメントや感想を求められて答えられるようにしておきたい。どう褒めるかがポイントだよな。自分の性格と合わなくても。
こういう句は甘いとおもってしまうのだが、
つい日活ロマンポルノかよ、と言いたくなってしまうのだが。
ほのめかしのスケッチ
夏石番矢『「俳句」百年の問い』からB.H.チェンバレン「ほのめかしのスケッチ」。チェンバレンは俳句を海外に最初に紹介した人で彼によって海外の詩人らが俳句に注目して俳句まがいの短詩を作るようになったのだ。
「ほのめかし」というのは警句(エピグラフ)のことで、偉大な作家の言葉を最初に引用して、自作の物語を始める手法だ。俳句が過去の作家からの影響を受けて、例えば松尾芭蕉が西行や杜甫からの影響の元に俳句を作るということ。虚子はこれを否定して、頭でっかちな観念的俳句よりも感性の俳句を求める(娘の立子に本は読むなと言ったのは、そうした立子の子どもらしさの感性を活かしたからか)。
チェンバレンは俳句を短詩だと捉えて、芭蕉を研究する。
凡兆の最初の句は水彩画のように一筆(三筆でと言っている)でさっと雪の中の川の情景を描き、次の句では「鮒売り」を消し去っているのだが、その声によってイメージさせるのであり、最後の「あられかな」の詠嘆で呼びかえす声は掻き消えていく情景なのであるが、そういうことは人生に往々にあることなのだ。
夕立の涼しさの後に夕日が差し込んでくる情景を詠んでいるという。
「むら千鳥」を「ウミカモメ」としているのだが、一陣の風が鳥の編隊をくづす情景。これも展覧会の絵のようだと書いている。
弟子たちの秀作を並べて、それでも一番見事なのは芭蕉なのだと真打ち登場なのである。
難しい言葉もあるが、夏の荒地の中で馬の飼料を集め背負う人夫の姿を時空を超えて我々に伝えているという(ちょっと褒めすぎ)。
これも村祭で娘がケーキ作りに精をだして、もう一方の手で額髪を気にしながらケーキを売っているという。ちまき以上にケーキだとメルフェンチックになって楽しい。
杜甫における芭蕉に与えた影響
『杜甫 ビギナーズ・クラシックス 』から中国の古典俳句が狭い国土の中で雄大なイメージを与えるのは、漢詩の引用にあるという。芭蕉は特にその時代に読まれた杜甫の解釈書(今読むと間違いも多いという)を読んで自身の俳句に生かしていた。
例えば「春望」から『奥のほそみち』の冒頭の鳥や魚の涙する擬人的な描きかた。他にも「曲江」二首の「 朝より回 りて日々に春衣を典し」から
花の蕊から出てくる蜂は、花のしげみから出てくる蝶の漢詩を参考にしているという。それは当時の解釈本が「花の中から蝶が出てきた」と解釈したからだという。また芭蕉の句作において景と心情(イメージ)の一致を杜甫の漢詩に倣っているという。他にも杜甫の漢詩から芭蕉の俳句を示した例が掲載されているのだが、ここでは漢詩の漢字と読みが難しいのでこれ以上上げない。日本の杜甫理解が深いのは、そうした芭蕉が杜甫の自然を詠む漢詩から抒情性を学んだからだと思うのだった。