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外部からの批評を受け止めた短歌と受け止められなかった俳句の違い

『短歌研究 2024年3月号』

目次
三十首 
黒瀬珂瀾「令和六年一月一日、およびそののち」/小池 光「舟唄」/小島ゆかり「クリスマスのくじ引き」 
二十首 
田中 槐「もつと東へ」/大井 学「ヴァリエーション─「楽遊」」/佐藤モニカ「灰色の猫」/小佐野 彈「鎖骨のましろ」/北山あさひ「うるせえドライヤー」/竹中優子「青い箱」
十首 
笹川 諒「柚子のゆうれい」/石畑由紀子「平野の波」/千葉優作「鳩がゐる」
五十首 
石井辰彦「トミスへの旅 カナンからの旅」 
【特集 能登、北陸の歌人たちと作る短歌研究】
第1部 新作作品集Ⅰ
岡野弘彦「ふるさとの能登に、祈る歌」/三井 修「龍が頭を振る」/永井正子「一瞬にして」/沢口芙美「能登の大地震」/喜多昭夫「無窮」/平谷郁代「家去りがたし」

第2部 寄稿
寄稿 沢口芙美「能登に眠る、釈迢空と折口春洋について」 
内藤 明「『万葉集』の能登、北陸の歌」 
三井 修「能登が生んだ二人の歌人――岡部文夫と坪野哲久」 

第3部 名作アンソロジー
能登のうた(選=三井ゆきと本誌編集部)

第4部 新作作品集II
能登、北陸の歌人たち二十八人の新作短歌(五首)
岩田記未子/浅野真智子/荒木る美/坂本朝子/島田鎮子/高橋協子/栂満智子/林和代/本田守/松本いつ子/山本美保子/飛鳥游美/三須啓子/三宅久子/山崎国枝子/堀田重則/金戸紀美子/紅谷惠子/村上滋子/高熊若枝/小野三千代/前川久宜/平井昌枝/加富公治/野田洋子/宮崎眞知子/黒井いづみ/奥武義

東直子の楽歌*楽座seasonⅡ「コントde短歌2024」(後篇)
ゲスト=加賀翔(かが屋)/林田洋平(ザ・マミィ)/鈴木ジェロニモ/水野葵以

作品七首+エッセイ
神山亮「三年日記」/寺山寿美子「瀧」/牧田明子「深爪」/河野泰子「ふるへるゆび」/安藤なを子「地球沸騰」/木下のりみ「今日の突端」/江川美恵子「ねむりの泉」/岩崎潤子「むらさきの」/兵頭なぎさ「デジャヴ」

連載
仁尾 智+岡本真帆「猫には猫の、犬には犬の11」 
吉川宏志「1970年代短歌史28」
佐藤弓生・千葉 聡「人生処方歌集 56」
工藤吉生「SNSで短歌さがします 28」 

書評 
さいとうなおこ|久々湊盈子歌集『非在の星』
鶴田伊津|富田睦子歌集『声は霧雨』
谷川電話|奥村晃作歌集『蜘蛛の歌』
雲嶋聆|渡辺松男歌集『時間の神の蝸牛』
鈴掛真|伊藤紺歌集『気がする朝』

短歌時評=平岡直子「このまま消えていきたくないんだよ」

歌集歌書評・共選=池田裕美子/棗 隆 

短歌研究詠草 米川千嘉子 選
特選=桂直子
準特選=石橋佳の子/熊谷純/真木麻有/望月公子/渡良瀬愛子/今村悦子/今井美紀子/住吉和歌子/瑞慶村悦子/北野美也子/深井ちか子/三田村広隆/村上秀夫/中原みどり/浅井克宏/田尻昭彦

短歌雑誌は作品を丁寧に読もうとすると時間がかかる。まだ好きな現代短歌作家がいないから一応全部に目を通すようにしているのだが、難解漢字や古語が出てくるとめげてしまう。せめてルビが欲しい。まだ短歌は若い人がいるから面白い作品もあるのだが。今月号では、北山あさひ「うるせえドライヤー」が面白かった。正月に地震があった能登特集は、あまりぴんと来なかったが、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台だっけと思い出しながら読んでいた。吉川宏志「1970年代短歌史28」が勉強になった。

作品観賞

黒瀬我聞「令和六年一月一日。およびそののち」

午前四時十分
能登沖か!直感は背を駆けながら卓に滑れば皿の落ちくる

短歌のいいところは速報性か。ただニュースとしての社会詠は悲惨な事件が繰り返されることで感情は希薄になっていくと思う。当事者以外は。五七五七七に瞬時に(後から?)収まっているのはどこかしら冷静なのかもしれないと思ってしまう。地震があっても短歌のリズムは乱れないのかと。そう言えばこの人は僧侶だったんだ。だからどこかしら客観的に冷静なのかもしれない。

天井の材はするどく崩落す新春福袋の頂へ

これは面白いと思う(面白いと書くのもどうなのかなと思うのだが)。新春福袋を買っていたのか?それが崩落することで改めて諸行無常を知るのかな。七七が句跨りになっているのだ。

しんしゅんふく ぶくろのいただきへ

福は空の袋になったのか?ゴミ袋となったのか?

福袋が広場うづめてゐしゆゑに天井瓦解の負傷者あらず

福袋はゴミ山になっているのだが、それ故に天井瓦解でも負傷者がいなかったのか?

地震(なゐ)に、はた、をさのごの号泣に、揺るるショッピングモールを急ぐ

これはニュース映像なのかな?「地震(なゐ)に」の文語体に余裕を感じてしまうのだが、悲惨な光景と言えば言えるけど、ニュース的な。

Line来ぬ妻より「にげて」「いますぐ」「富山は津波3メートル」と

妻のLineメッセージがリアルに緊迫感を伝えるのは、もはや短歌のリズムを外れているからだろう?なんか短歌を考えている作中主体と外部の落差を感じる歌である。

十時間前
あらたまの初日の前のうすやみに鐘は響けり躍動の音

こういうところがどこか余裕に感じられてしまうのだが、除夜の鐘は躍動だったのにということか?

山行きの大渋滞をさかのぼり海へと駆るはあやまちか知らず

みんな車で行動するのだ。ちっとも3. 11の教訓が役立っていない。そんなもんなのかと思う。

とやまみんなしんだと思ひ大阪の児は泣きじやくる電話の先に

むしろ外部の声の方が切迫感が伝わっていくな。

天神も地祇も人など譲らんなあそもそも人のゐるを知らんな

混乱状態だが客観的な感じがする。

ボランティア勝手に行くなというふ声のボランティアなどせぬ人たちの

もう聞き飽きてしまったというセリフなのだが、そういう反省のないところに人間はいるのだと思う。

「つなんばし」は村の外れの小橋にて江戸の津波の記憶を渡す

「つなんばし」は津波橋という記憶の橋渡しということなのか?外部とのつながりが重要なのだと思うがいざというときはそうは行かないのだろう。

小池光「舟歌」

冬枯れの水を湛えて利根川は来る日も来る日もひがしへ向かふ

湛えて(たたえて)。東へ流れるということか?「方丈記」かな?

幕の内弁当のなかにひとつある梅干しかなしふるさ遠し

富山との距離を感じてしまうな。

井上陽水に名曲あり
宇都宮の田川のほとりに安宿のその名も「リバーサイドホテル」にわらふ

「リバーサイドホテル」は全国にありそうだな、昔、有田の「リバーサイドホテル」に入った思い出に笑う。これは共感性なのか?

5番線ホームの点字ブロックを鳩ひとつゐて歩くは淋し

寂寞感か。誰にでもあるよな。

茂吉に蔵王のやまありセザンヌにヴィクトワール山あるがごとく

宇都宮の田川の「リバーサイドホテル」なのかな?

クラウゼヴィッツ『戦争論』がひっそりと父の蔵書にありし思ほゆ

クラウゼヴィッツ『戦争論』を意識したのはニュースで戦争を見たからだろう。戦争が撲滅せず戦争は永遠に続いていく。クラウゼヴィッツ『戦争論』は漫画で読んだな。地震と同じなんだろうか?それが自然なのか?

旧田中角栄邸の全焼が線香の不始末と聞くもはかなし

TVのニュースに反応する時事詠なのか?地震には反応してないのは意図あってのことなのだろうか?東京ではこれほどニュースが入ってくるということなのか?

ただ一人の孫よりきたる年賀状虫めがねにて読むあはれさよ

社会詠と日常詠の等価ということなのか?個人の歌ということなのか?

八代亜紀去りてのこりし「舟歌」をこころの中に口ずさむなり

一番共感したのがこの歌だった。タイトルにもなっているし。歌とはそういうものなのかも。大声で叫ぶよりも口ずさむ程度がいいのかもしれない。


北山あさひ「うるせえドライヤー」

タイトルは惹かれる。「まひるの」の歌人は多い。

いつのまに餅巾着の餅消えて空にmoya-moya雲わいている

この人は横書きでもOKの人いうか、横書きなんだろうな。

避難所のご飯がおいしそう、うれしい 星座が街を点検している

能登沖地震の感想だろうか?問題発言だとは思うがそれを歌にしているんで、オブラートに包まれている感じなのかな。「星座が街を点検している」という表現は意味不明だ。神の視線ということか?

ネガティブがネガティブを連れてくる 松の枝くぐる、くぐる、くぐる

初詣かなんかの情景かな。リフレインが斬新。また定形に収まらないネガティブさも◯。

チョコレート蔵(しま)われているコニャックや「ごめんね」のこと 揺れるてる琥珀

このへんはチョコレート世代なのか?

人びとの眉間をぬけてきたような月が一心に顔洗いいる

これ好きかもしれない。月光仮面の紋章の三日月。そうだ、昨日の夜の三日月は良かった。


「言葉は無力」って言葉は人を殺すじゃない「過疎地に住むな」とか言うじゃない

壮大な字余りなのか?「」の中はワンセンテンスでいいと思うこの頃。リフレインも定形を無効かすると思っている。だからこれを分析すると

「言葉は無力」/って言葉は人を/殺すじゃない/「過疎地に住むな」/とかいうじゃない

定形じゃない短歌のリズムになっているのだ。独自解釈。

赤ん坊の鬼太郎の残像 雪の上をポテトチップの袋がすべる

映画短歌だけど。「雪の上をポテトチップの袋がすべる」は秀逸だな。残像っぽい。

わたしいつ死ぬんだろう 新しいドライヤーのうるせいのなんの

なんかいいのは定形じゃないからかな?うるさい感じがいいのかもしれない。生きている限り人はうるさい。

銀杏並木は雪の巡礼服を着てあゆめり人の記憶の裏を

定形もどきだけどリズム的には七七が収まっているからいいのか?最初が7音だけど、許容の範囲。

【特集 能登、北陸の歌人たちと作る短歌研究】

なんかあまりピンと来なかったのは当事者ではないからだろうか。能登と言われるとそうだ、松本清張を読んで一人旅をしたことを思い出すが。輪島の駅で降りてバスに乗り遅れてしまって、一日に二本ぐらいしかバスがなかったことか?それでここには居られないと京都ジャズ喫茶巡りに変更したのだった。

松本清張の一首が印象深いのはそんなところか?『ゼロの焦点』だよな。

雲たれてひとりたけれる荒波を恋しと思えり能登の初旅  松本清張

そうだ、雪が降り出して泣きたくなるほどの一人旅だったけど、よく戻ってきたなと思う。

塚本邦雄も恋の歌。短歌は恋の歌だと知ったのは最近のこと。

中空に恋の路ありいまだ見ぬおもかげによせ鈴はさや振る 塚本邦雄

恋路海岸という場所をロマンチックに幻想しながら歌った歌だと。

沢口芙美「能登に眠る、釈迢空と折口春洋について」

釈迢空が折口春洋と出会ったのが能登で出会ったとか。釈迢空の歌は春洋を暗示しているようで艶めかしい。

内藤 明「『万葉集』の能登、北陸の歌」

『万葉集』の大友家持が能登の国守として和歌を残していた。

吉川宏志「1970年代短歌史28」

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』を読んでいたので、その続編という感じだと思ったのは、戦後塚本邦雄や岡井隆が前衛短歌運動で出てきたときに歌壇だけではなく、現代詩や現代俳句との交流があったということだ。俳壇もそういう議論はあったのだが、俳句の伝統性を主張する方向で保守化していく。短歌にはこの時代の前衛短歌運動があったから次の世代の俵万智や穂村弘が出てきて一般人にも認知されるようになったのだと思う。

俵万智の口語やそれまでの七五調を崩していく手法は塚本邦雄や岡井隆の方法論があるのだと思う。短歌のリズムについては60年代に塚本邦雄と大岡信の定形論の議論があった。それは70年まで続いて、佐佐木幸綱が短歌のリズムということよりも「調べ」という短歌の響きが(塚本邦雄なんかは詠嘆調は否定したのだが)その歌が投げかけることによって波紋が広がっていく効果をこれからの短歌として論じていたのだ。その佐佐木幸綱の教え子が俵万智なのである。俵万智は単なる女子大生ではなかったんだよな。真面目な教員として短歌を拡げていく役割を担っていたのだった。それは寺山修司的なメディアの使い方の上手さもあるのかもしれない。またこの時代に女性歌人の活躍は男性歌人を凌ぐ先行性があったと思う。俳句に比べ女性歌人の輝かしいことよ、と思ってしまう。

最近の俵万智ブームもそうしたメディア戦略としての短歌の流れがあるような。それはコピー化というマーケティングの戦略であり一方で大学短歌会やネットでは塚本邦雄が導いた難解短歌化が進んでいるように思える。

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