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シン・俳句レッスン161
地区協会長インタビュー第10回「鹿児島/高岡 修」
「強靭なる詩」詩が純化される。詩とは何か?
余ったり足りなかったり『現代俳句』(2024年11月号)から塩見恵介「俳句称美の基準三十項」外在律と内在律。詩とは何かと問い続けながら詩を書く。形式ではない。俳句も「俳句とは何か」と問い続けながた作っていく。それは一回生ということ。同じ句は在りえない。
五七五は日本語の見事な構築性がある。詩の一回性は、定型ではない。外在律は定型、内在律は個人のリズム(リズムよりビートだな)。
内在律と外在律の喩えで水にいれたコップだとわかりにくい。砂の方がわかりやすいな。そうかだから抒情性は湿り気のことなんだ。あまりにドライ(批評的)だと崩れてしまう。
季語について。もともと詩には詩語はなく、詩に成り立ったときにその言葉が詩語となる。
わたくしは滝の心の由来する 山下久代
滝は夏の季語。この俳句の中で滝は一回性の詩語であり、この季語は夏の季語よりも詩語としてある。季語を超えた意味がある。
広島や卵食ふ時口開く 西東三鬼
無季の句だが時制がある。広島という時制、卵という未世の時制、口開くは現在形で「口」は人が開いているのではなく、現在の口が開いている。
高岡修という詩人の考えは悠久の時間(歴史的)があってその一瞬に立ち会う個人の時が交差する時を捉えた短詩が俳句の醍醐味だ、みたいな。
虚子の遺産……井上泰至
『俳句 2024年5月号』から井上泰至「虚子の遺産……」。虚子は俳句よりも小説を書きたかったのだが子規の指名で「ホトトギス」の編集をしなければならなかった。それでも小説を諦めきれず漱石の小説が掲載されたことからも小説のほうが文学的価値が高いと思っていた。さらに俳句のひらめきでは碧梧桐の才能にかなわないと思っていたのだが子規の説得によって写生句が出来るのは自分かもしれないと思い「ホトトギス」を引き受けた。その中で「雑詠」欄が話題になり、様々な俳人を生み出した。その俳人たちも虚子の俳句から離れていくが、虚子は自身が考える俳句を押し通した。それが現在まで続いている。先程観た動画の吉岡禅寺洞も虚子の俳句観に反抗して「ホトトギス」を破門(除名)された一人だった。
近代俳人列伝 4Sの活躍 水原秋桜子
4Sと言われる俳人たちも虚子の「ホトトギス」で育った俳人である。その中で秋櫻子は虚子の有季定型の客観写生に対して心(イメージ)を描くことも写生だとした。
葛飾や桃の籬も水田べり 水原秋桜子
植物を連句として読み、ここでは桃の花を連想させていく「も」の使い方なのだ。
梨咲くと葛飾の野はとの曇り 水原秋桜子
万葉の古江の春や猫柳
しろじろと遅き梅あり藪の中
連翹や真間の里びと垣を結ばず
連翹や手古奈が汲みしこの井筒
葛飾や桃の籬も水田べり
春の情景を連続させて一連の流れとしてのテーマ詠なのだ。ここでの「桃」は季語の花としての桃をイメージしている。そして田園の明るい情景だけでなく暗さも描いて見せる
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子
春惜むおん姿こそとこしなべ 水原秋桜子
『葛飾』の終わりに配列された七首の「古き芸術を読む」と題された中の一つで「百済観音」の前書きがある。そこに百済観音の心情さえも詠んで見せるのだ。これは秋桜子が和辻哲郎『古都巡礼』に感動して、休日の大和行きとなった作品だという。
奥本大三郎「俳句の中の虫 幼虫」
匂うなり蝶にならんと角を出し 池田澄子
山椒にいるアゲハチョウの幼虫なのだが、最初は鳥のフンに似せて白い幼虫なのだが、成長するに従って色の付いた芋虫になっていく。それで鳥とかに狙われやすのだが、刺激を感じると触覚と共に臭い匂いを発する(その匂いから「ゆずぼう」と呼んだりもするそうだ)。それは柑橘系の匂いがするのだということなのだが。確認したことはなかった。
実家には山椒もあって、確かにアゲハの幼虫とかいたけど見過ごしていたと思った。あの頃は芋虫にも興味はなかった。
それで『俳句 2024年5月号』の合同批評で池田澄子の「春は花」の句評がでていたのだが、自分的にはあまり好意的には読めなかったのだが池田澄子の作家性が出ていたとか。
合評鼎談……横澤放川・辻村麻乃・抜井諒一(池田澄子「春は花」)
池田澄子「春は花」の答え合わせ。
雨は霙に新種のウイルスに変種
社会詠ということで取ったが対句の音韻があるとは思わなかった。「種」と助詞「に」だろうか?そんなに練られた句なのかな?そっか「雨は 霙」と切っても良かったんだな。でも「に」の助詞が入ることによって俳句の切れはなくなるが。外在律は、五七五定型ではなく七九三変種だけど内在律がリズムになっているのか?
龍の玉むかしのことは覚えている
連句の良さと読んだのだが前後がはっきりしない。「龍の玉」はラビスラズリ色で昔も印象的だったのかもしれない。それが悠久の太古の 勾玉まで連想されている。高岡修鹿児島協会長が主張していたことだ。そっか池田澄子も新興俳句派だった。俳句よりも詩として読む。
随分と生きてやっぱり春は花
表題句だけど花=桜という意味も含んでいるのだろな。それじゃなければ虫でもいいわけだし。
しらじらと明け切々と花筏
これは桜の連句が出てくるのだ。桜は死生観を感じさせる花だった。この花筏も三途の川を流れていくイメージか?「切々と」を「きれぎれと」と読んでいるが、これは「せつせつと」だろう。切れたら筏にならん!「しらじらとあけせつせつとはないかだ」で流れていくのに、「 切々と」と読んで、「きれぎれなり」が正しいというアホは誰だ。
川は河へ泥をいざない花月夜
これも桜の連句的な句で、「花月夜」が天に上っていくようで美しい。「河」は銀河(天の河)かもしれない。
蟻よ御免ネこれ「アリ全滅シャワー液」
これ面白い。花の句だから虫はいらないと全滅させる(桜吹雪の)お澄であった(NHK俳句で「お澄」と呼ばれているとか)。
冬が来た冥途経由で来たかしら
やはり死がテーマとしてあるのだ。それで「春は花(桜)」というタイトルで日本人の死生観もテーマとしたのだ。そこを指摘してないな。
鳥雲ニッポニアニッポン生きてゐて絶ゆ
これは珍しく文語だけど、そこに日本人の死生観を朱鷺で象徴させているのだ。ここでも悠久の時(時=朱鷺の掛詞だった)と「鳥雲」という個人を対句的に詠んでいた。リフレインは師匠である三橋敏雄に通じるとか。