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シン・現代詩レッスン38
今日も阿部公彦『詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること』から伊藤比呂美の「セックス」をやってみようか。オヤジだからあまりエロくならない程度に。伊藤比呂美はけっこう憧れる詩人だった。最近出した本がいいみたいだと「高橋源一郎の「飛ぶ教室」」でやっていた。最初のほうを読んだら犬の気持ちになることだな。
伊藤比呂美『きっと便器なのだろう』はけっこう衝撃的だった。「便器」という言い方もすごいがそういう言葉がセックスの中で氾濫しているのは事実だった。それを男は受け止められるのか?
きっと便器なんだろう 伊藤比呂美
ひさしぶりにひっつかまえた
じっとしていよ
じいっと
あたしのせいっぱいのちからをこめて
しめつけてやる
タイトルからその内容がセックスのことだとわかるが、セックスを語る短歌林あまりで見てきたからそれほど驚かないが、女性からセックスを語る詩を読む衝撃性はなんだろう。「しめつけてやる」の呪いの言葉か?ひらがな書きは一つの詩のテクニックであるという。「ひさしぶり」とか「ひっつかまえた」や「ちからをこめて」「しめつけてやる」は表記として漢字でもいいわけだが、そこに声の呪術性を感じるのである。伊藤比呂美は朗読(声)の詩人のイメージが強い。
ひらがなはそんな親密さを感じる距離なのだが、その親密さが呪いの言葉のように感じてしまうのは漢字の部分が魔女のそれだからか?
仮名文字で
あっというこえがぎゃくてんする
あはぼくになりきみはうえになる
そしてあはしめつけられて
ちっそくしそうになるのだ
ああ、ああ、ああと吾
吾は俵万智が使う自我の言葉できみは相手なのだけど、その逆転現象が伊藤比呂美の詩にはあるということだった。
さっきはなんといった
あいしてなくったてできる、といったよね
このじょうのふかいこういを
できる、ってあなたは
ひらがなの親密さは声になっていくのは仮名という仮称の声だからか?和歌で漢字の真名に対しての仮名はいつも女の演技ではなかったのか?だから言霊が呪術となっていくのかもしれない。演技が本気になるという仮名が真名になる瞬間の悲劇。
あのうわごとを
せめるきみは、
それを愛だと
錯覚している
「じょうがふかいこうい」は仮名だから
真名では出来ない吾だった
愛のない男のセリフだが愛は錯覚というのは言えてると思う。振る舞うことがどこまで出来るかだった。
Iの部屋Iによって
手早く蒲団が敷かれたこと
とうめいな
ふくろ、とか
こんなことやってきもちよくなるのかあたしはちっともよくならない
と言ったらIが
抜いてしまったこと
きもちよくならくても暖かく
あてはまっていたのに
駅まで抱き合って歩いた風が強く
とても寒く
かぜがつよくてとてもさむく
とてもさむく
ひらがなは親密さを漢字は距離感を表すという。漢字になったのは過去の振り返りの情景かもしれない。Iは英語では一人称だが、ここでは逆転する。先ほどの吾と似たパターンだ。
きもち良い行為ではないが、隙間風を埋めるぐらいにはいいのかもしれない。セックスはそういうもんだと。抜いてしまった後の描写をロマンチックに感じてしまうのは、客観的なあたしと主観的なあたしに分裂しているからだろうか?そこに冷たい風が入り込む。「寒く」を「さむく」と言い換えての魔法。
吾の部屋吾によって
手早く田山花袋になったこと
とうめいな
におい、とか
こんなことをやっても吾は不憫な吾を感じるだけだ
きみがたちさった
うしろすがたをみながら
自慰するのは間違いだった
君と吾は寒い外に出て
さむいといえば
抱きしめるかも
君はどんどん先を歩き消えていく
追いかけったて無駄なことだ
蒲団で田山花袋は文学的お約束だった。どうしても文学の方に逃げていく。