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シン・俳句レッスン53

いろいろ木の実がなっていた秋だった。電車の中でカップルが椎の実が不作なので熊が里に降りてくるとか。それもあるかもしれないけど、この異常気象で自然界のバランスも崩れているのだろう。山も元々人間だけのものでもないし、造成で住む範囲が狭くなった熊は里に降りてこらざる得ないのだ。

実がなっても取るものがない現状だから。

柿もあっちこっちでたわわになっているが誰も取らないで落ちていく。もっとも今はスーパーで種無し柿を売っている時代だから、例え渋柿じゃなくても種ありは食べる人がいないのだろう。石牟礼道子の『天湖』で境界にある柿の木が渋柿だけど転がり落ちる柿は甘柿になるというので拾って食べるシーンがあった。干し柿にしたりアルコールで渋を抜いたりして昔は食べていたのだった。柿の木を嫁入りと同時に嫁ぐ先に持ち込むという風習もあったようだ。今日の一句。

落ちるだけ木の実の好み人気投票

凡人クラスだな。落ちるからもう一つ枝を張らねばなるまい。「落下する」にしよう。

ロマンチックすぎるな。

十三夜

テキスト、上野洋三『芭蕉の表現』から。

枡かふて分別替わる月見哉

住吉神社の十三夜の市だという。先日のと同じ日の俳句だという。

何に此師走の市にゆくからす

直後にやればいいのだと思うが、ひと間置いていた。十三夜も十五夜の後なのに数字が少ないから前なのかと勘違いしてしまう。十五夜は旧暦八月十五日で、十三夜は旧暦九月十五日だからだ。月齢で呼ぶ場合もあるのでますます混乱する。

十五夜は中国が発祥で、それに対抗するために新たに十三夜を祝うようにしたという。二回やるからこんがらがるのだな。旧暦の十月はやらないんだな。月は特別な日があるということ。

それで芭蕉の句に戻るが枡というのは祝の酒枡。しかし芭蕉はこの日体調不良であった。しかしそれでも枡を買ったのだから風雅の心で月見哉と考え直したという。通常なら月見の風雅の心など持ち合わせていないのに枡を買ったことで月見の風雅を思い出したという一句だという。良くわからんが、通常の月見の句でいいんではないか。

尼寿貞が身まかりけるときゝて
数ならぬ身となおもひそ玉祭り 

詞書の「尼寿貞」は芭蕉の心の妻と言われる人で芭蕉はかなり取り乱したという。「数ならぬ身」は『万葉集』からある雅語であり、芭蕉が尊敬する西行も使っているという。そのような危機を乗り越えて「玉祭り」(盂蘭盆会)を行うことが出来たという、斎藤茂吉が菊山当年男『尼寿貞考』を読んで歌を寄せるほどなのだ。

うつせみの二つの命を明らめてこの一巻に書きぞとどむる  斎藤茂吉

ただ上野洋三は詞書を付けたものが芭蕉ではなく、それによって尼寿貞に寄せて読んでしまうことを諫める。それが下五の「玉祭り」という明るさ(俳諧味)なのであるという。

A 人声や此道帰る秋の暮
B 此道や行人(いくひと)なしに秋の暮

芭蕉が弟子にどっちがいいか問うと、支考がBと答えて芭蕉の俳諧の道の困難さを説いたという。Aは後ろを振り返り幻聴を聞く。Bは前を向いて幻視を見るという。どちらも成り立つので芭蕉としては両句を併記してもいいのだが、弟子にしてみればBを取ったのだということらしい。言えることは芭蕉も孤独だったのだということか(弟子に囲まれていたが)?

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

芭蕉の辞世の句だとされるが、実情は上五は後から付け加えたものであり支考に伝えたのは「なほかけ廻る夢心」で七五を示したので上五を加えたのであり、其角は「枯野を廻るゆめごころ」と支考の伝聞を伝えている。

そして「病中吟」として「旅に病んで」を加えて漢詩『東坂詩』から夢を廻るものであって、「かけ廻る」としたのは芭蕉よりも支考の思いの方が強かったのではないか?それを元に解釈として支考の思惑通りに枯野を廻り歩いている自分の姿を夢見たとされるのだ。

芭蕉はそのような場所を突き破ったところの俳諧であったというのだが。だからこれは芭蕉の作ではなく支考の芭蕉をイメージした句なのか?

俳句いまむかし

『俳句いまむかし』坪内稔典。過去の名句と現代俳句の名句の読み比べ。

一滴のうすくちしやうゆ緑さす   藤本美和子

「うすくちしやうゆ」の旧仮名が一滴の中に醸し出す「緑さす」という季語の新鮮さ。「緑さす」は「若葉影映ること」と秋櫻子が定義した。

緑さす漬物桶にひざまづく  野澤節子

台所の窓から木陰の日差しが差してくることとある。いかにも漬物が美味そうだ。野澤節子は大正生まれでから、それほど古い人でもなく「緑さす」も最近の季語だという。まだそれほど手垢が付いてないのでどうぞということだった。

食卓のこいくちしやうゆ紅葉染め  宿仮

夏の気分じゃないので秋の気分で詠んでみた。

蝿打って迷惑さうな蝿叩  小笠原和夫

俳句は『古今集』などの雅語にない言葉を詠もうとする。その代表になるのが嫌われている虫なのだ。

老いの手や蝿を打つさへ逃げたあと  小林一茶

一茶ならわざとそうしたような気がするが、これは他者を詠んだものらしい。逃げた蝿も「打て打てと逃げて笑う蝿の声」という。ゲームじゃないか?

水張りし夜をいつせいに夏蛙  朝妻力

「蛙」は春の季語。夏だと夏蛙。「青蛙」「雨蛙」も夏の季語だという。秋に蛙はいないのか?蛙も虫だとか言ってたな。秋に鳴くのは、「虫」。

青蛙おのれもペンキぬりたてか  芥川龍之介

蛙の声ではなく、色を持ってきたのが芥川の注目ポイントか。ただ「ペンキ塗りたて」は色指定というよりつやつやした状態なのだろう。

キッチンの天窓にくる緑雨かな  小西雅子

昔は台所俳句と言って馬鹿にされたようだが今はそういうこともないのだろうな。日常の中の非日常だ。それでも葛原妙子のような俳句が好みだが。明るいのは苦手。

ひと日臥し卯の花腐し美しや  橋本多佳子

なんとなく淫靡さが好きだ。「緑雨」より「卯の花腐し」の方が好みだが、今は「緑雨」や「青葉雨」の方がよく使われるという。イメージ的なものか?

安曇野や水の匂ひの五月の木  橋本榮治

安曇野だから五月の木じゃなくともいいと思うのだがな。観光地化されていない安曇野なのか?すぐわさびとか連想してしまう凡人だった。

水荒く使う五月となりにけり  伊藤通明

五月は水をじゃぶじゃぶ使う日だという。十一月はあまり水を使いたくないかもと思ったが、やっぱ二月頃だよな。最近風呂が冷めるのが早いと思うが。

風呂覚めて追い焚きせずに上がるかな  宿仮

風呂に入って休憩。

NHK俳句

「七五三」夏井いつき。こういう季語は投稿しにくい。季語の力となぞなぞボールを投げる。ただなぞなぞボールはキャッチボールだからその座の中である程度の傾向があるのだと思う。「なぞなぞ」な部分が教養でもあるが、60年代生まれと80年代生まれは違う。昭和一桁の常識がまったくわからないというようなことがよくあった。

<兼題>夏井いつきさん「氷」、山田佳乃さん「寒造」
~11月17日(金) 午後4時 締め切り~

夏井いつきのは先週の問題でもあるが、忘れてしまった。


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