ジーナ・ローランズの天使性は外界では悪魔になる
『こわれゆく女』(1974年/アメリカ/147分)監督・脚本:ジョン・カサヴェテス 出演:ジーナ・ローランズ、ピーター・フォーク、マシュー・カッセル
精神を病んだ妻をジーナ・ローランズが演じていて狂気の世界に迷い込む。夫は刑事コロンボでお馴染みのピーター・フォークなのだ。コロンボでは「うちのかみさんがね」とひけらかすが、こっちは妻のことに触れられると怒り心頭で、人を事故死させてしまうほど。妻は精神病院に入院したのだ。
なんかどういう展開なのか、ただ映画を見ているだけしかなく、いきなり狂気の家族の中に放り込まれる。ただジーナ・ローランズの妻が悪いとも思えずサービス精神は旺盛で子供たちにも人気がある母親だった。ただあまりにも子供と一緒なので社会生活には適応できていないという感じなのだが、それにしてもピーター・フォークの夫も怒り過ぎるように感じたのは家父長制の悪しき習慣なのか、俺が一番偉いというような、妻はそれに従属させられているのだ。また義理の母も嫌な婆さんで、彼女ことを考えようともしない。夫はそんな母に嫁の愚痴とか言っているのだからマザコン男かもしれない。こういう病気は家庭内に問題があるので、個人だけのせいでもないのだが。
その原因は父親にあるような感じだったが、そこはあまりはっきりしないが、妻が病んでいくというのは当たり前のようにある話なので、リアリティがある映画になっているのだろう。狂っていると言っても純真なだけかもしれないし、社会的にそういう狂気をひた隠しにして生きているのだ。それを夫の方は外に感情あらわに出せるが妻は出せないでいる。
ジーナ・ローランズの妻が子供たちと遊んでいる姿は本当に天使になったようなのだ。天使性が人間界では悪魔になるように狂気なのだった。それは社会性という問題なのだと思う。それを映画の中で暴いて見せるから居心地が悪い。そういう空気感の映画ではあるのだけど、滑稽な感じがするのも事実なのである。ピーター・フォークの旦那もそうといういかれていると思うが(子供に酒を飲ませたり、仕事が終わって大勢の仲間を突然家に招いたり)、そういうところは家父長の特権的な部分があって許される。その犠牲になっているのが妻だった。まあ夫は外で金を稼いでくる、妻は家庭を守るという役割が出来ているのだが、その役割が出来ない妻だった。子供の前でセックスしたいと言ってしまう妻だった。そうだ、そういう社会的な役割が出来ない人なのだ。どこでも自分は自分であるという今の社会ではそれは当然認められているのだと思うが、あの時代は妻は家庭に閉じ込めておく者だった。