シン・現代詩レッスン118
四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」
『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」。四元康祐はよく知らなかった。何かの研究者。
詩人なのか?小説家でもあるな。作家にしとけば間違いはないか?この詩は国際創作プログラム(アメリカの大学)でイスラエルのガザ攻撃を受けて書かれたものだった。散文詩から始まって、それは事実を散文(エッセイ的)で書いたもので、その後に韻文詩が始まる。最初にその国際創作プログラムの様子とイスラエルのガザ攻撃で意見が二分したこと。アメリカはユダヤ人が多い社会でイスラエル寄りの人も多いのだろう。戦争がもたらす分断と対立は大学内でも起きていた。そしてこういう場合に日本人は曖昧に傍観するがどっちに付くか意見が求められる。そうしてプログラムも終わりそれぞれの国へ帰っていくのだが、フィンランドの詩人が雲の写真集を手渡されて、それで英詩「Mediation by the Clouds」を書いたということだった。それの翻訳詩ということなのか?
雲を眺める人が好きな人なのに、そうした雲を眺めることも疚しいと感じるのは、ガザでは空爆で雲さえ安心して見られないからだろう。
大抵の日本人がこの立場だと思う。そこに空の思想があるからだろうか?この場合、むしろ中島みゆきの歌を連想する。
ここでユダヤ人の友達がいて、彼と親友でいられることが出来るのか?むしろ、それはできないから孤独を選ぶのかもしれない。空と君との間にはミサイルがあるというわけだ。しかし、ミサイルを持ってしても雲は止められないという。それが空の思想か?そして、四元はそんな「雲を調停者」のようだという。
この中国人は老荘思想だろうか?よくわからん。雲と魂が同じ物質とは考えられないかも。ただ雲の形は無意識的であるな。そこに空なる思想があるのか?
背後の青空を感じられないから悲観するのだった。まだ中島みゆきの歌の曇り空の方が安らぐ。雨は涙なのかもしれない。雨が赤い血を洗い流すまで。
そのフィンランド人から返事が来て、やっぱ涙を流すという。青空のあとのスタンザがあるというのだ。