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シン・俳句レッスン147
月
月俳句の名人になろうとした時期があったぐらいに月が好きだった。それは虚子の「月並み」俳句から来ていた。和歌の世界では月は「月並み世界」であろうはずがなく、どこが月並みなのか。虚子の娘の星野立子の「月並み俳句」が好きだ。
父がつけしわが名立子や月を仰ぐ 星野立子
今日の一句。
名月は遅れた頃にやってくる 宿仮
現代俳句
一句目と二句目は随分と違うけど、一句目はなるほどと思ったが二句目は甘えてんじゃねえ、と思ってしまった。解釈として大人が作った句であるというのはそう思うのだが親の視線とか爺が孫を見る視線とかは正直感じることはなかった。大人子供が自身を肯定する句かなと思っていたのだが短冊に書く願い事として、大人世界を批判する大人の構図というのはちょっと違うかなと思うのは神頼みの無力感を感じたからだ。それが爺の孫の見る視線となるとちょっと怖いというか、そこまで支配されたくねえよなという思いが強くとても受け入れる気にはなれない。という大人子どもの自分の感想だ。
短歌の読みがこれほど肯定的に読めるのはなんでなんだろう?一句目は尻をめぐる解釈として俳諧性と「平和」という理想を繋げたのはいいとおもうのだが、さらに農耕民族として田植えとかにつなげていくのは蘊蓄の話でそれをありがたいと感じるかうざいと感じるかの差なんだろうな。そのことがコメント欄に出ている。俳句はその言葉に込められた知識の総量で、それで読みが面白くなったり底まで言うかという感じになると思うのだが、季語の起源の話は正直うざいと思ってしまう。それだと詳しい歳時記持っている奴の勝ちみたいな。感性勝負ではなく知識勝負になってくると思う。
今日は投稿日にしよう。俳句ポストは色鳥が締切日だった。
主に秋に渡ってくる小鳥たちのこと。「色鳥」という言葉は、「色々の鳥が渡ってくるから」とも「色の美しい鳥が多いから」ともいわれる。実際に尉鶲・連雀・花鶏など、美しい小鳥が多く、その色彩を意識して詠むことが多い季語である。
なんか日常的には死語の部類だよな。「いろとりどり」の語源か?それと二物衝動で中級狙いか。
正岡子規
今日も『鑑賞現代俳句全集 第1巻』から久保田正文「正岡子規」から。今日9/19日は糸瓜忌だった。松山まで墓参りも出来ないので俳句を作るぐらいか?俳人の忌日は多くて、毎月のようにあるがやはり好きな俳人の忌日は俳句を詠んだりするのだろうか?先日、泉鏡花の墓仕舞いのニュースがあったので、それで詠んだぐらいだった。
「糸瓜忌」は子規が臨終時に絶筆三句の糸瓜の句を詠んだことから来ている。ただ実際にはそれ以前に作っていたという説もあった。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
大江健三郎『子規はわれらの同時代人』では子規の絶筆三句の構造体を明らかにしているという。それは生活者であり改革者であった表現者としての生き様ということだろうか?芭蕉の辞世の句が芭蕉の俳諧人生を語っているように語っているのかもしれない。
正岡子規は、『病床六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』で子規の俳句だけではなく俳文としての才能を感じ取ることが出来る(写生としてのスケッチも)。「仰臥漫録」では中江兆民『一年有半 』を批判しているのだが、自身も同じような手記を書いているところに子規の負けず嫌いの正確が伺える。『病床六尺』、明治三十五年五月から127 句が掲載され9月に亡くなる。
首あげて折々見るや庭の荻 明治35年 秋
畫くべき夏のくだ物何々ぞ 明治35年 夏
明治三十四年に四月に『墨汁一滴』九月に『仰臥漫録』の連載を始める。藤の歌十首で有名な藤の歌。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみのうにとゞかざりけり 明治35年四月二十八日
春水の盥に鯉のあぎとかな 明治35年 三月
あぎとは魚のえらの意味で漢字が出てこない。この句は病床の子規を見舞って伊藤左千夫が鯉を盥に入れたのを十句詠んだという。一つの題材で十句作るというのは子規が始めたのか?
水の月物もたまらで流れけり 明治30年 秋
流産二句と前置き。碧梧桐の手記によると子規の秘め事として書かれているという。
冬帽の十年にして猶属吏なり 明治30年 冬
著者(久保田正文)が一番いいという句。しかし、虚子は取らなかったという。労働者の生活句で社会詠的だったからか?
芭蕉忌に芭蕉の像もなかりけり 明治29年 冬
芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 明治31年冬
芭蕉忌は7句作っているが否定的なものが多い。
草茂みベースボールの道白し 明治29年 夏
子規のベースボールを詠んだ句として有名。
肥溜めのいくつもならぶ野菊かな 明治28年 秋
雪隠の窓にぶらり糸瓜かな
「糞の句」というエッセイもある子規は、芭蕉に並びこういう句も作っていた。
名月やわれにどぶろく五合あり 明治27年 秋
名月の句十四句のひとつ。ただ著者は名月の句に佳句は一つもないと断言する。
鶏頭の一四五本はありにけり 明治33年 秋
鶏頭論を引き起こした問題の句。虚子は取らなかった。
穢多寺の仏のうつくし曼珠沙華 明治33年 秋
現在ではタブーとされる句。しかし、子規は穢多村好きと噂されるほどこの手の句が多いという。子規の小説『曼珠沙華』からも差別意識について批判的な意図で書かれているという。
糸瓜忌や俳句詠むまでの痩せ我慢 宿仮
なかなか俳句が浮かばないという句で子規の痩せ我慢の姿を思うかべる。
『俳諧の詩学』川本皓嗣
いきなり和辻哲郎の『風土』は否定され日本人の持つ季節感は後学的なものだという意見。それはイスラエルの秋はヨーロッパと違い、まだ暑く落葉散る頃になるとすぐ冬になるという。それでもヨーロッパからの移民たちの四季感は「秋は寂しい」という概念を持つという。
そんなヨーロッパの詩は自己探求型が多いので長詩が多く、日本の短詩の伝統はないという。秋の感受性についても後学的なもので、歳時記等の記述に従うことが多い。それらの繊細な区分を外国人に説明するのは難しいとするのが、日本人の特権だと思っている。例えば『万葉集』で秋を中心とした歌の多さから日本人の秋好きが言い立てられるが『源氏物語』ではそれを否定してみせた(紫の上の春贔屓)。そうした季節感の意識付けは、古今集が大きな役割を持つが、元を正せば中国の漢詩の影響があったのである。
例えば『源氏物語』で「白文集」や「文選」の引用も多い。日本の秋は豊作という概念があるにもかかわらず寂しい秋の意識付けが貴族間で行われていたのだった。むしろ俳諧がそうした庶民の季節感を取り入れて、今の「悲秋」ばかりではなく、「食の秋」も意識付けられていく。