シン・現代詩レッスン36
今日も阿部公彦『詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること』をマニュアル本として。
Ⅰ「日常にも詩は"起きている"──生活編」として5つの要素を上げているのだが、最初の3つ「名前を付ける」「声が聞こえてくる」「言葉をならべる」はクリアしたと自己判断して、今日は「黙る」「恥じる」とちょっと私には不可能な要素もあるかもしれない詩的レッスンなのである。そこで取り上げられているのは、大嫌いな高村光太郎である。なぜ嫌いか?偉そうな詩人だからである。彼が「黙る」に取り上げられているのは、戦争責任問題から沈黙していたからか?そこのところがよくわからないのだが、我道を行くというスタイルは他人に犠牲を強いいることであるばかりか、すでに他人を貶めることだった。それは高村光太郎とロダンの関係性からすでに伺えるのではないか?
ロダンが女性彫刻家カミーユ・クロディーヌを貶めて成功したのは、イザベル・アジャーニ主演の映画でもお馴染みだ。高村光太郎が妻智恵子にしたことも同じようなものだと思っている。そしてその智恵子のことを詩に読み自身は売れていく。その結果が成れの果てだった。このことは映画『智恵子抄』にもなっていて、日本国民に刻み込まれたのだろう。なんたって私の妹がそんな名前を付けられていた。
それが高村光太郎のロマンチシズムから成っている物語であり、詩的童貞人はころっといかされてしまうのだ。まあ『道程』がそのような詩であることは間違いないのだが。経験者はこの程度の詩でいかされることはない。ボードレール『悪の花』とかにいかされたけど。
動物で比喩的に語っていくのは、金子光晴『おっとせい』やボードレール『信天翁』と同じだった。その動物を卑下しながら持ち上げる。牛がのろまなのは定番化されていて愚鈍さの定番のように語られ、牛のようだとか、牛になるとか言われる。牛歩も悪い喩えだ。
「野でも山でも道でも川でも」と言葉を繋げるテクニック。だけど次が「自分の生きたいところへは/ まっすぐに行く」はないだろう。人に引っ張られていくか雌牛の尻を追いかけるとか。闘牛士の牛は無理やり戦わさせられる。
詩ぐらい成りたいものになってみたい。
すべて自分の理想とする詩人の否定で、つまらない人生を送れと言っているようだ。凡庸さ勧め。それがそのまま新興宗教のような格言となって人を騙すのかとも思える。戦争に行くように騙したのはお前だろと言ってみたくなる。
同じフールでも「愚か者の船」には乗りたくない。愚か者の歌に憧れる。
太字の表現を褒めているのだが、一昔前の格言みたいだ。
「もうとこたえる」は「もういいよと答えているのかもしれない」そういえば「もう」というとすぐ口答えすると言われたものだ。そうして不器用に生きることを勧めるのだった。
やり始めるのを大変にしているのは上の世代だろうと思う。やりたいようにやればいいのに、やたら伝統とか生活とかいい始める。「けれども」の使い方が違うだろう!牛は馬鹿に敏感でもない。それは家畜という牛だ。三里塚はいつのまにか権力に土地を奪われる。そして叫べば獣扱いだ。それがお前らの「最善最美」なら若者の未来なんてありゃしない。