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シン・俳句レッスン148


稲妻

稲が入るのは光の意味で天の光を宿して豊作になるという伝承からだという。ただ自然現象なので、田舎も都会も関係なく見られるので、季語としてはいいかも。稲妻ではなく雷かな。稲妻は稲光で、雷は音的なものを連想すると思うのだが。

いなびかり女体に声が充満す 加藤楸邨

雷落ちて火柱みせよ胸の上 石田波郷

稲妻は秋の季語で雷は夏の季語だというのも面白い。

稲妻や人騒がせの非常ベル 宿仮

現代俳句

ジャズ句会は面白そうだ。新興俳句とも相性が良さそうなのは、前衛俳句の高柳重信と前衛ジャズの高柳昌行を同一人物と勘違いしていた自分としても即興演奏と即興句は共通性があると思う。永井江美子さんはいい。季寄や俳句上達法の本は禁止とか。自分の頭で考える面白さ。何が駄目だとか言わない、感性勝負の世界。

高柳重信

夏石番矢編集『高柳重信』から十首ぐらい。

恋人のああなん ぞ薔薇うつ し 高柳重信

『前略十年』

戦後(昭和22年)の作品。高柳重信の詠嘆調が出ている作品だという。青春俳句だな。

ゴッホの糸杉  東風こち に逆さだつ我が蓬髪 高柳重信

『前略十年』

一字空け。前半が西欧、で後半が日本の情景の出会い。「逆さだつ我が蓬髪」を糸杉に見立てたのか。わかりやすい。

きみけり遠き一つのに似たり 高柳重信

『前略十年』

久米正雄が絶賛したという。嫁ぐ恋人の知らせを訃報と受け止める心情。無季俳句。

身をそらす虹の
絶巓ぜってん
    処刑台  高柳重信

『蕗子』

「処刑台」はシュールレアリスムのロートレアモンが言った「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」を踏まえたもの。「虹」との二物衝動か?「虹」は夏の季語だが夏石は超季とする。そこが精神世界であり、かつ性的エクスタシーの現れと見る。そうだとすると「蕗子」(娘)が独身時代の自由さのギロチンということになるのか?

てば傾斜
 歩めば傾斜
  傾斜の
   傾斜  高柳重信

『蕗子』

高柳重信の句は口承文学よりも表意文学で、文字のレイアウト(本当は縦書きだが)が重要なのだろう。異質な漢字のルビとかも重要な要素なのかもしれない。俳句の短詩性に込められた実験精神。

ぽんぽんだりや
ぱんぱんがある
るんば・たんぱ 高柳重信

『蕗子』

「ぽんぽんだりあ」は当時外国から来た園芸品種の花。「ぱんぱん」はパンパンガールで進駐軍相手の娼婦。言葉のリズムをルンバのダンスに模写した作品か?卑猥に活気に満ちた戦後日本の一句。

月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵 高柳重信

『蕗子』

リラダン伯爵はフランスの『未来のイヴ』を書いたヴィリエ・ド・リラダン。異次元の精神世界は、内宇宙なのかもしれない。

船焼き捨てし
船長は

泳ぐかな  高柳重彦

『蕗子』

堀口大學のアンソロジー『月下の一群』の中の詩ジョルジュ・ガボリ「海景」にインスパイアされた作品だという。夏石は三島由紀夫を連想し、わたしはメルヴィル『白鯨』を連想した。

見つめられ
寒がりながら
出てくる満月 高柳重彦

『蕗子』

高柳重彦の月は精神世界のものなので、ここでは超季としている。高柳重彦も月が好きなんだ(太陽神よりもツクヨミ)。

河東碧梧桐

『観賞現代俳句』から加藤郁乎「河東碧梧桐」。俳句よりも短詩として、俳句は滅びても詩は滅びないとまで言ったとか。新興俳句の傾向があった俳人かも。今はけっこう無視されがち。「無中心論」は、無意識的なシュールレアリスムのような感覚か?自由なる俳諧を求めた俳人である。子規が碧梧桐を称した句に自然の中に自由な旅をする彼の姿があるという。

散る木の葉風はたてよこ十文字 正岡子規

一日一信に書き残したる 木槿むくげ かな 河東碧梧桐

木槿は一日花とも言われその日その日の花咲くように書き残す俳句に対する姿勢か?碧梧桐は旅の俳人で宿帳には書生と書いていた。それは権威にならないことで俳句は売るものではなく先生と呼ばれるのを拒んだという。『三千里』には西行・芭蕉の遍歴を継ぐ意志の表明がある。

さみだるゝ旅硯の側や新俳句 河東碧梧桐

その中で「新俳句」という新傾向の新しい俳句を絶えず求めていた。

味噌汁に糸瓜仏も莞爾なり 河東碧梧桐

糸瓜忌の句。糸瓜仏が糸瓜を仏に見立てた「莞爾」は難解だが仏の微笑みというような意味だろうか?

赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐

その子規が認めた碧梧桐の俳句8句の一つ。この句が碧梧桐の代表作のように思う。実際に赤い椿と白い椿が同じ場所で同時に落ちることはあるのだろうか?そんなリアリティを考えるとこの句はイメージの句のように思える。イメージの句であるからより華やかに絵になっているのだ。碧梧桐の「無中心性」を表した句で視点が二つに分散されるが、どっちが主ということはない。

帚木は皆伐られけり芙蓉咲く  河東碧梧桐

『源氏物語』の帖の題名にもなっているが人の移り気やすさの喩えだという。それを皆伐採して芙蓉を咲かせるのだ。

卒然と秋雨の句を言ひ残す 河東碧梧桐
会津より秋にかけて出羽の時雨かな
ことし亦た山を出て稲を見たけれど

河東碧梧桐『三千里』


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