シン・俳句レッスン124
紫陽花
毎日日記で俳句は作っているので三句はあった。
二句目は「あじさい」と「七変化」は重なるから別の言葉が必要だな。
都会の子になっていく娘は紫陽花の儚さみたいなもの。
尾崎放哉
仁平勝『俳句が文学になるとき』「尾崎放哉『大空』──定型律から自由律へ」。
尾崎放哉はエリートから脱落して、社会で生きていくよりも脱社会のような生活に入るのだが宗教的なものというよりは風狂的な俳人への憧れのようなものかと思う。ほとんどアル中俳人のようで人嫌いで面倒なのが嫌いのぐーたら人間なのだが、山頭火よりも放哉のほうに惹かれるの山頭火が宗教的なものを求めたのに対して、放哉は人間のあるがままを見つめようとしたからか。そのことが放哉が文学となるのならダメ人間の文学なのだ。しかし、いくら駄目人間になろうとしてもここまでの姿は晒せないのではと思う。
井戸という象徴とも取れる。井戸(隠者)の文学と言ってもいい。これはエピグラフなんだと思う。人生訓にならない人生訓みたいな。隠遁者という言葉が一番相応しいだろうか?西行のような。ただ西行は隠遁者と言っても他者との出会いを求めていた。放哉はいつまでも自己の世界から出ようとしない。
放哉が受けるのは、俳句を作らない人でもダメ人間の部分があるからかもしれない。だから逆のことわざみたいな何かになろうとするのではなく、何者でない人の肯定感なのか。淋しさは否定するものでもなく、満たすものとなるのだった。放哉の自意識を露出させる俳句だという。必然的にそこには約束された時間もなく季語を必要としない。はたしてこれが俳句と言えるのか?短詩だと思えば短詩だと思うが。エピグラフに近いと思うのだ。ただ韻律だけが共通認識を求めているのかもしれない。
仁平勝は作者が俳句だと思えばそれが俳句なのだと断言するが、それは違うと思う。例えば漱石の『三四郎』のような長編小説も俳句であるのか?ただ定型の概念を超えたところに自由律俳句の良さがあると思うのだがそれは共感する季語からの離脱としてあるような気がする。最初に定型五七五があることによって自由律という型破りがあり、季語というスタイルがあってそこから離脱していく孤独な姿があるのだろう。
ここにある形としてはものと私の関係性なのかもしれない。俳句は二律一句の世界感があり、季語と私との関係性だったのかもしれない。その季語は抒情的なもので戦後詩が「もの」という象徴性に託した理念があるのだが、放哉の自由律は理念よりも不条理な感情をものに託すのである。「たばこ」と自己が一体化していく不条理さなのかもしれない。不条理の文学か?宙吊り感と言っているがどうしよもない時間が流れているようだ。そうか時間は流れているのだ。たばこが消えるという時間が。にも関わらずそれを捨てきれない自己の世界なのだ。居るは空間。そこは淋しさという感情の世界か?「すてる」という動詞が終止形(時間)でもなく連用形(もの)でもなく、原型だという。そこがよくわからんが、本質であるということだろうか?むしろ両方であるのかもしれない。時間とものという宙吊り状態。俳句は連用形で終わるのが基本だという。
「蛇」というものと「またいで通る」という自己。炎天下という交差する空間なのか?時間の宙吊り感と言えるのかもしれない。「通る」は終止形でもいいし連用形でもいいそのあいだの宙吊り状態という。
長すぎるな。
定型っぽいな。三段切れになってしまっている。
定型だった。紫陽花と五月が重なるか?
このぐらいか?
山頭火の句だと思ったが放哉だった。入れものという「もの」と両手という自己が受けるという宙吊り感か。なるほど出来ているな。
折るを入れたい。
花が散るという言葉を入れたくなってしまう。短歌なんだよな。紫陽花が季語だからいけないのか?
これだと桜になってしまうな。
このぐらいか?
「せき」がものなのか?行為だよな。ただここには連続性を感じる。一人という状態。時間と自己か。
「墓」というものと廻るという自己。裏で出会う一句か。このへんが警句としても上手いのかもしれない。
杉田久女『杉田久女句集』──女流のいる場所
仁平勝『俳句が文学になるとき』より「杉田久女『杉田久女句集』──女流のいる場所」。
まず「女流」がアウト!だった。そこにあきらかに偏見がある者だと伺われる。それは女流に対して「男性俳人」と書いていることだ。ただ貴族に対して上流階級の和歌と書いているので、それはなるという意味を含んでいるのかもしれない。第二の性の第二芸術論。
これは理屈だから駄目句という。「教師妻」を卑下しているからという。これ季語は「足袋つぐ」ののか。冬籠りというような。「足袋」が冬の季語だった。破れた足袋を縫っているのである。ノラには「人形の家」の意味もあるけど野良の意味も含んでいるのではないのか?足袋の世界が句会などに出かける雅な世界としてあり、「ノラ」は俗な世界だ。その繋がりに教師妻という自身の身の置所があるような。「ノラ」という新しき女のポーズを取っている女(「青鞜」のように)とするのだが「ノラ」を限定的に読みすぎではないか。素直に裸足になって外に出たい女としての「野良」ともならずというふうにも読める。むしろノラを知らない人は野良として読むではないか?理屈で思考しているのは、仁平勝も同じでそれが理屈だから駄目というのは偏見意外の何者でもない。理屈の句などいくらでもあるのである。例えば先程上げた放哉の句でも、
ただそこに理屈を超えた感情の世界があるのである。杉田久女の句にもそれはあると思う。そこにある主婦失格という(それは久女の意志の現れとして「ならず」)という言葉があるので自嘲という女流ということなのだという。そもそも俳句が和歌の発句から始まり、自嘲するしかない俗っぽさにあるとしたら、それは女流俳人というものになろとした杉田久女なのかもしれない。
女流俳句を望んだのは虚子の「台所俳句」からだという。それはセールスの問題で主婦層を狙った虚子の戦略だったかもしれない。その流れに載って投稿した久女の句。
まな板の上の鯉ではなく鯛だった。師走は師が忙しく走るということわざの意味があるとして、そこに虚子を見てしまう。まな板の鯛は久女かもしれない。どう料理(批評)してもいいという句だろうか?ただしこれらの習作は「杉田久女句集」には掲載されてないという。
久女が自選したのはこの句である。台所の影もない。むしろ乙女の夢のような甘い句だと思う。そこに「長まつげ」という夢を追う女の姿が目に浮かぶような。「長まつげ」は「付けまつげ」だろう。化粧をする女は目を見開いているのである。なかなかの句だと思う。仁平勝は尼になってひなびた庵に引きこもっている女の句と読むのだが、どうだろうか?つけまつ毛した女が引きこもるのか?
これも鮮やかな久女の名句である。外出から戻ってきた女が着替えると紐がいろいろ脱ぎ捨ててあるのだ。この紐は生き物(蛇)のように絡み合っている欲望を感じてしまう。
この句を傑作というのがよくわからない。中七「濁り初めたる」がいいという。濁りは生活感みたいなものか。朝顔は雅な姿だが濁りはじめたるはしぼんでいく様子なのか。それなのに市の空。という曇り空なんだろうか?
よくわからない句だった。
この句も貶されていた。出来合いの言葉のイメージであるという。もともと言葉自体が出来合いのもので、それで表現するのだから当たり前だと思うのだが。これがステレオタイプだというのなら『銀河鉄道の夜』もそうなんだろうな。銀河濃しは「天の川」のイメージではなく「ミルキー・ウェイ」の感じか。「銀河」が聖なるイメージで、「救ひ得たりし子の命」は俗っぽい母の願いだ。しかし子は銀河の一粒になっていくのだ。たぶん、そのときに詠まれた「長女チプス入院 十二句」という連句だから他にもあるのだ。とりわけこれだけ取り出してみてもという気がする。
やはり七夕に童話を読んでいることから、それは宮沢賢治かもしれない。そして全快したというオチまであった。俗っぽいんだよ、母親なんて。
仁平勝が好きなのはこういう生活臭のした抒情的な句だった。それが女流俳人というイメージを本人の頭に勝手に作っていくのだろうか?
久女安定期の句だという。瀬戸は「瀬戸の花嫁」を思い出すような保守的な地域。逆潮はそれに逆行していくという感じか、それでも船がたどり着くのが「瀬戸の春」という安定した場所だった。
他人の不幸は甘い汁的な句だろうか?穏やかといえばおだやかな句である。ただ久女の句歴の中で読むからだからと思う。普通の主婦がこんな句を読んでもありきたりだと思うのではないのか(今なら一層)。
読めない漢字があるが久女があっちの世界へ行ってしまったような気持ちになるのは俗な言葉が一つもないのだ。久女という俗っぽさが持ち味のエネルギーみたいなもの。すべて言葉に負けているように思える。
この句が一番久女らしいか。谺は虚子の谺かと思う。
全盛時の時鳥か一気に下降線上の時鳥だった。もう絶唱と言ってもいいぐらいのほととぎす(白鳥の歌だった)
芭蕉
『芭蕉紀行文集』から「更科紀行」。
「笈の小文」で京都に行った帰りの木曽路を通っての「更科紀行」。姥捨て山に月見に行くのだった。芭蕉は月が好きなのは西行の影響だろうか?姨捨山は月の名所だった。もっとも姨捨というぐらいだから人里離れた寂しい山奥なんだろうか?
「俤(おもかげ)」は「面影」。母の面影とする読みもあるようだが姨捨山に連れてこられた姨たちの面影のほうがいいような気がする。前半しんみり俗なる気持ちで後半は格調高く「月の友」。なくを泣くとしていると母の面影という感じなのか?無くかと思った。
NHK俳句
前回の続きで『取り合わせ」の「二物衝動」のパターン。
俳句は二章一句の法則があるような。逆に書かれているな二句一章なのか?
ふたつの短い文章があり切れて一句に仕上げていく。その中で前句と後句ではなるべく離れているような言葉がいいとされる。それは月並みな句を避けるため。一本の線で繋がれているような句がいいと言われている。杉田久女
風呂吹(大根)→料理する→箸を通す→穴が開く→ミサイルが飛んでくる。料理するという中間を抜かすことで風呂吹き大根からミサイルに到達する。
ミサイルが来る→緊急警報→紫陽花が赤に変わる
難しい。