シン・現代詩レッスン121
四元康祐「女優と試論とエイリアン」
四元康祐『噤みの午後』から「女優と試論とエイリアン」。「詩論」は結構気になるというか「詩論」を織り込んだ詩を過去にもやってきたが、自由に書けばいいといいなが「詩とは何か?」という問いが大きなテーマとなるのはそれだけ詩がわかりにくいからだろうか。この詩は『エイリアン』の夢を見ながらそのエイリアンを「詩」のようなものと見出すのが面白い。まずは『エイリアン』の宇宙船に乗り込むことだ。
これは『エイリアン』シリーズの何話だろか?小型救命艇に乗り移って脱出というのは後の方の『エイリアン』だと思うのだが、とりあえずそれは置いといてここではそれは重要ではないような気がする。エイリアンが追いかけてくるのを逃げているのだ。「逃げる」がポイントか?
映画じゃなかったな。原作本なのか?いやこの本は別物だ。シガニー・ウーバーが出てきたのだから映画だろう。どっちでもいいのだが、寝そべって読んでいた本がエイリアンとなって夢に出てきたということだろうか?夢を比喩だと考えるのは精神分析なのか。救命艇も言葉の舟(ことの葉)なのだ。エイリアンも言葉なら救命艇も言葉なのがポイントか。
エイリアンは内宇宙に生息している言葉なのだ。それが「酸を吐き散らし草木を枯らし子猫を骸骨にして/ 自らは原爆に吹き飛ばされても生き延びるこいつこそが/ 詩とよばれるもので、命からがら逃げてる方こど/ 散文的現実」なんじゃないかと言っているのである。それは言葉だから戯言に過ぎないのだが、やがてそうした散文的世界に支配されてしまうのを恐れているのだった。ということは散文詩なのか?そこに対抗するのに韻文詩が必要なのかもしれない。
シガニーは二次元の妄想か?引きこもりすぎて恋人と思ったりするのはよく聞くことだ。「宇宙」は別世界で言葉の世界だろうか。そうした世界にワープすることは詩人ならよくあることだった。そこに恋人(同志)であるエイリアンと戦う彼女がいるのだ。しかし、それは「天涯孤独虚空に漂う」姿だった。次の台詞が見事なのだ。そうそれは詩を読んでしまった者の宿命。