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シン・短歌レッス133

王朝百首

君恋ふと消えこそわたれ山河にうづまく水のみなわならねど 平兼盛 
  

三十六歌仙だからそれなりの歌人なのだろう。初めて知った名前だけど。勅撰和歌集に九十首入っている。恋歌に命をかけたとかある。赤衛門の父であるという。忍恋の歌合で壬生忠見に勝っている。それで相手の壬生忠見は病死したとか。そのぐらいに歌合は真剣勝負の場だったという。

ちっとも忍恋でないではないかと思うが。泡沫に消えるどころかますます渦巻く恋心の王朝男歌という。侍だからか?

この調子だとなかなか終わらないので、今回からは一気に紹介していく。

かげろふの仄見(ほのみ)し人の恋しさにあるにもあらず恋ひぞ消ぬべき  祐子内親王家紀伊

「かげろふ」は「蜉蝣日記」とは違い「陽炎」のほうであるという。「蜻蛉日記」の「蜉蝣」はトンボの意味。そうだったのかと今更ながらに知る。ウスバカゲロウかと思っていた。これも忍恋なのだが恋は消えないという前の歌と似たような意味だった。

そのとき文屋の歌は記述がないので、どうでも良かったのかもしれない。文屋の歌は、これまたどうでもいい理屈めいた歌が百人一首に載っていた。

小町こそは『古今集』の花であり女歌の原型とする。業平と共に伝説になった歌人だが、伝説の部分は哀れさが多いのはそれこそ女性アイドルの原型であるからなのか?

恋ひわびてながむる空の浮雲や わが下もえの煙なるらむ 周防内侍

白河上皇の御時、端午の節句の時期に行われる菖蒲の根合というゲームともに行われた歌合の一首だという。題詠は「恋」。煙は死者を現し、このときの対戦相手が藤原道宗の娘で勝負なしになっているという。だれが見ても周防内侍が勝ちだったというので「下燃えの内侍」と呼ばれたという。なんか下ネタっぽい。

いなづまは照らさぬよひもなかりけりいづらほのかに見えし陽炎 相模

この相模・伊勢あたりから女房文学という和歌になるというのだが、それは折口信夫『女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史』に詳しいかな。

そうした女房たちは歌合によって宮中の花となっていくのだった。「いなづま」のような才気煥発なものも「陽炎」だったという女房たちの姿か?

世のつねの松風ならばいかばかりあかぬ調べに音もかはさまし 建礼門院右京大夫

建礼門院右京大夫は重盛の子敦盛の愛人でもあった。貴族社会の終焉、『源氏物語』の世界観。このころは武家社会の到来していた頃ですでに滅びの美を体現しているような。それは音楽のようなものであるのかもしれない。

惑はずなくららの花の暗き夜に我もたなびけ燃えむ煙は 藤原顕綱

藤原顕綱は讃岐入道と後に出家した。

女房文学のあとに隠者文学が来たと言われるように、世間を憂いているのだが、香りにかつての繁栄を見ようとしているのか?『源氏物語』にも「匂合」という帖(「梅枝」)があった。

つきくさにすれる衣の朝霧にかへるけささへ恋しきやなぞ 藤原基俊

基俊は俊成の師であり、この歌も歌合の恋の題によるもの。「つきくさ」は「月草」であり「朝霧」との対句表現。この時代に歌合は遊戯的な側面よりも新旧入り乱れて激論を戦わせる場になったという。その保守の代表が基俊だという。

つらかりし多くの年は忘られてひと夜の夢をあはれとぞ見し 藤原範永

藤原範永は歌合ルネサンスの後冷泉の皇后の歌合に相模や伊勢とともに中心的役割を果たした人物。やはり世を儚む厭世的な歌でのちに出家した。

篝火の影のしるければうばたまの夜河の底に水も燃えけり 紀貫之

紀貫之の幻想的和歌。「水も燃えけり」が幻想的な情景。ただそれだけなんだが。鮎漁の様子ということだった。

移香(うつりが)の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ  藤原定家

定家の恋の歌は全て虚構であるという。虚構であるからこそ狂気を孕んでいるのは、そのテクニックなのか?現実以上の物語性なのかもしれない。

待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす花たちばなの匂ふあたりは 大弐三位

は紫式部の一人娘だという。なんか余裕な感じの歌だな。相手の男がほととぎすなんだろうか?題詠は「花橘」で、『新古今集』の夏の巻は三割以上がほととぎすの歌だが、これは『後拾遺集』。

ほととぎすそのかみ山のたびまくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ 式子内親王

塚本邦雄は式子内親王が最高の女性歌人だという。紫式部の娘の「ほととぎす」と並べたのも格調が違うということなのか?これは賀茂の斎院になって神山に出向くときの歌だという。ちょうど平家全盛時であり、清盛が太政大臣になり崇徳院が讃岐で崩じた頃の歌だという。恋歌よりも意識高い系の歌。

現代短歌の文語律と口語律

馬場あき子編集『短歌と日本人〈3〉韻律から短歌の本質を問う』岡井隆「現代短歌の文語律と口語律」から。              

短歌の口語律の興隆期は次の四つの時代があった。

  1. 明治末から大正初め時代(1900年代と言ってもいい)

  2. 大正末から昭和初期(1920-1930年代)

  3. 戦後、唱和二十年代(1940年代)

  4. 唱和後期から平成・現代まで(1960年代-)

1、2、3の時代の口語律は短歌滅亡論(短歌否定論、〈第二芸術論〉など)のさなかに現れてくる。4、は「前衛短歌」の行き詰まりとリアクションからコピーライティングのような口語短歌が出てきた。ただ分断化があり一方では難解な口語短歌があり、一方でコマーシャルのような短歌があるのだ。
1は「言文一致」運動が言われた頃だが、短歌ではそこまで「言文一致」の歌はなかったという。例えば与謝野晶子の『みだれ髪』も君という言葉を使っているが、それは万葉時代の「君」とほとんど変わらない。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君  与謝野晶子

この時代に口語短歌に意欲的に挑戦したという青山霞村『地塘集』では

できましたか阿方(あなた)の後を継ぐ女皇(めぎみ)神戸の小さいあの王国に 青山霞村『地塘集』

これだけでは意味が通じない。自序にアメリカから帰ってきた幼稚園の女教師へとあり、贈答歌だった。女皇はアイロニーだろうか?

他に独泳歌として季節を詠んだものがあるが、それほど目新しい歌ではないという。

蝶の夢花の夢草も春の夢雲のかたちもまた夢のやう  青山霞村『地塘集』

しかし霞村『地塘集』は半分は今まで通りの文語短歌になっていった。霞村が流行らした口語表現としては「ごとく」を「やうに(な)」という柔らかい表現になっていくぐらいだった

2はプロレタリア短歌の全盛期。

出稼ぎに若い男女がでかけてゆく貧しい村の冬がまた来た  中村孝助

斎藤茂吉『赤光』の場合

数学のつもりになりて考へしに五目ならべに勝ちにけるかも (明治38年)
赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ (明治39
年)

文語だか口語だかわかりにくいが「なりて」「考えし」「勝ちにけるかも」が口語的用法だという。この頃はまだ言文一致が確定しない時期であり漱石『坊っちゃん』が出たのが明治39年だという。その歌は連作「地獄極楽図」の一首で初句が6音なのが音数を乱す口語化だという。結語の「ところ」は正岡子規の口語を真似たという。この頃の短歌は近代化を求めてナショナルな作風だという。それが『赤光』の中に復古調の歌が出てくるのだ。

青玉のから松の芽はひさかたの天(あま)にむかひて並びてを萌ゆ (明治39年)

古語の定型に負けて内容は乏しいという。万葉調ということみたいだ。「萬葉調」と「写実」が「アララギ」派の二大テーゼであった。後年、茂吉は「写実」という現代性を獲得していく。まだ復古調が抜け出れない歌は、

かぎろひの夕べにの空に八重なびく朱の旗ぐも遠にいざよふ (明治40
年)

この頃は「万葉調」でありながら会話文の導入という口語化も試みている。

床ねちにぬくまり居れば宿つ女が起きねと云えど起きがてぬかも (明治41
年)

1998年の『短歌』9月号「口語を生かす」という特集から。

屋上にねころんで手をつないでみた無力な二枚の木の葉のように 俵万智
ぼんやりと耐へてゐるんだゆく夏の傘に集まる雨の重さに  山本富士郎
もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情をみせたくせに  加藤治郎
朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおもあえを足で起こす日曜  穂村弘
おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は 斉藤史
さういふなら君の両掌でみどりごのくれなゐの耳をぎつてごらん 塚本邦雄

米川千嘉子『たましひに着る服なくて』を読む

現代短歌は、和歌の伝統として文語の中に斎藤茂吉のように口語を取り入れるような混合文が多くなっている。

みづあふれ子どもは生まれみづは閉ぢこの子のどこかへかへりたそうで 米川千嘉子

「みづあふれ」は助詞を省略した口語調。米川の短歌は子どもに向かうときは口語調になり、父(亡き父の歌)に捧げられる時は文語表現が多くなる。ただ短歌の律を整えるために文語表現が活用されるのだ。

薄き刃のあたるしづけさ緑陰に入りゆくはパプステマのしづけさ  米川千嘉子

前半は音数律に則って懐古調の表現だが「パプステマ」と外来語が入ることで音数律が乱れて破調になる。

NHK短歌

俵万智さんが選者、大河ドラマとのコラボで注目の第2週。ゲストはドラマで藤原道長の兄・道兼を演じた俳優の玉置玲央さん。テーマは「家族」。司会はヒコロヒーさん。

<題・テーマ>川野里子さん「屋上」、俵万智さん「旅」(テーマ)
~5月20日(月) 午後1時 締め切り~

<題・テーマ>大森静佳さん「休日」(テーマ)、枡野浩一さん「おかえり/ただいま」(テーマ)
~6月3日(月) 午後1時 締め切り~

「家族」

これもまた家族のかたち灰色の下着が二枚並ぶベランダ  小佐野彈

灰色の下着は男物のパンツ(シャツでもいいが)でゲイである様子が伺えるという今風(現代的)な家族をベランダという空間に切り取っている。

短歌作りのポイント
時代や社会背景をいかした表現にする。

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな  藤原兼輔

「光る君へ」

紫式部(まひろ)の祖父の歌。

一般論よりも自分の心を乗せる。

西行

【聴き逃し】カルチャーラジオ 日曜カルチャー 平安時代の和歌(4)

#radiru

空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな  西行

山家集

西行が二十三歳で出家する直前の作。題詠「霞」。「世にあらじ」世の中にいたくない(死にたい=出家)。「空」「霞」「立つ」は縁語。特定の理由があるのではなく、青年時特有の内省的な観念世界に憧れる気持ちだという。

出家直後の歌。伊勢に向かう途中の鈴鹿山(関所)で詠んだうた。

鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらん 西行

山家集

上句は決然たる決心であるが下句は迷いが見られる。鈴鹿山は境界にいる西行。その山の頂上で見開かれる景色の中から見えてくるものがある。「鈴」と「振り」「なり(鳴り)」は縁語。過去(上句)と未来(下句)を縁語で結びつけて、同時に読む位置・境界(鈴鹿山)にいる。境界に佇む人。

修行のために奥州(東北)への旅に向かう途中白河(関所)で詠んだうた。能因法師が詠んだうたへの本歌取り。これも境界のうた。

都をばかすみとともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関  能因

白川の関屋を月のもる影は 人の心を留むるなりけり 西行

山家集

「関」と「もる(守る)」は縁語。

高野山(真言密教の本山)の草庵を持って(高野山という寺院には入らず)、寂然(比叡山の大原)に宛てて詠んだうた。

山ふかみこけのむしろのうへにゐて 何心なくなくましらかな

「ましら」は「猿」。猿の鳴き声=冬、猿を自身に見立てている。

山ふかみまきの葉わくる月影は はげしきもののすごきなりけり

源氏物語の和歌

高野晴代『源氏物語の和歌』から。

橘の香をなつかしみほとととぎす花散る里をたづねてぞ訪ふ  光源氏

「花散里」の帖だが、この歌は花散里の姉である麗景殿女御に贈ったものだという。麗景殿女御は光源氏の父桐壺帝に仕えていた女御であり、桐壺帝の死後麗景殿は荒れ果てていたが橘の木だけが見事に花づいていたのだ。その花は花散里と言ってもいいかもしれぬ。そこにやってくるほととぎすを自身に託したのだろう。光源氏の中では父に仕えていた女御への慰問という意味合いもあったのだ。須磨に渡る前の静謐な帖だという。

初雁は恋しき人の連なれや旅の空とぶ声の悲しき  光源氏

朧月夜のすったもんだの挙げ句に右大臣方から疎まれていた光源氏は須磨に逃亡する。その須磨の海を見渡し、側近の者が光源氏に唱和する雁の歌は男達の唱和という特筆すべき和歌で印象に残る。

かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世の友ならねども 良清

心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな 惟光 

常世出でて旅の空なる雁がねもつらに遅れぬほどぞ慰む 右近将監

思ふらむ心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか悩まむ  明石君

「明石」の帖で明石入道が進める縁談を光源氏は受け、最初の文を送るが返事は入道のものだった。そんなにツンデレいいのかと問うたのに明石の君が大層な返信をしたので光源氏は都にもいないほどの教養を持った女性であると見抜いたという。明石の君はツンデレとして描かれていた。

水鶏(くひな)だに驚かさずはいかにして荒れたる宿に月を入れまし 花散里

朱雀院が退位し冷泉帝の時代になり光源氏の天下になりつつ、桐壺帝の追善供養のために帰京し、その途中に花散里邸に寄ったが相変わらずの荒れた屋敷であった。この歌は花散里の方から贈っていて、花散里の場合は全てが花散里からだという。それは花散里の優しさというが、光源氏はそんなに興味がなかったのかもしれない。

藤波のうち過ぎがたく見えつるは松こそ宿のしるしなりけれ  光源氏

「蓬生」はけっこう短編として面白い。光源氏を待ち続けた末摘花が女房にも去られたのだが、最後大どんでん返しという幸運を手に入れる。末摘花は花散里のついでなのだが、存在感は末摘花の方があり印象に残ってしまうのだ。その分花散里は影が薄いのだが、二人はセットとして考えるといいのかも。

逢坂の関やいかなる関なれば繁きなげきの中を分くらむ  空蝉

「関屋」で偶然空蝉に出会う、あの人は今的なエピソード。源氏の誘いをやんわり断っている歌だという。後に尼になって光源氏は面倒を見るのだが。面倒な女と思ってはしないか(そういうマメさがあるのも光源氏の包容力だった)?

別るとて遥かにいひし一言もかへりて物は今ぞ悲しき  前斎宮(秋好中宮)

前斎宮もははである六条御息所とセットで考えればいいのかもしれない。母娘一体感があるのだが、最終的には光源氏の後ろ盾(養父)を受け入れるのだが、この歌は朱雀院に仕打ちに対しての返信だった。恋心を抱いていた朱雀院)(当時は帝)は伊勢から戻って来るなと言ったのだが、戻って冷泉帝の中宮になるのだった。このへんの事情も複雑だった。

行く先をはるかに別れ路に堪えぬは老の涙なりけり 明石入道

「松風」。ここは明石家族の別離のシーンの和歌だった。明石入道は道化師的だが、このは娘・妻・孫娘との別れのシーンで盛り上がるのだった。ここも親子の唱和があるのか。

諸共に都は出できこの度やひとり野中の道にまどわん 明石尼

生きてまた相見むことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まむ  明石君

末遠き二葉の松に引き別れいつか木だかき影を見るべき 明石君

次の帖「薄曇」での娘・明石姫君との別離のシーン。明石姫君は紫の上が育てることになるのだった。

韻律論

馬場あき子編集『短歌と日本人〈3〉韻律から短歌の本質を問う』から鼎談「韻律と短歌」で川本皓嗣が述べている「韻律論」が面白い。

なかなか説明するは難しいのだが、日本人のリズムが四拍子というのは一拍に二文字で、五七五七七に当てはめていくと五音の時は3・2で二拍と一文字の休符と見ていく。そして4拍が5回繰り返されていくという。一拍というときは最初文字が強で次が弱とくり返していく。これはあくまでも音韻論で実際には1拍の中に3音のときもある(三連符はブルースになりそうだ)。8ビート(8文字)の四拍子ということだった。その理論は面白い。あくまでも理論ということなので実際の短歌は違うという話。

それを実際に作品に当てはめて見ればわかるかも。

君恋ふと消えこそわたれ山河にうづまく水のみなわならねど 平兼盛

きみ/こふ/と◯/◯◯
きえ/こそ/わた/れ◯
やま/かわ/に◯/◯◯
うづ/まく/みづ/の◯
みな/わな/らね/ど◯

綺麗に音韻が揃っているな。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君  与謝野晶子

やは/はだ/の◯/◯◯
あつ/きち/しお/に◯
ふれ/もみ/て◯/◯◯
さび/しか/らず/や◯
みち/をと/くき/み◯

後半乱れているのか。

さびし/からず/や◯/◯◯
みちを/とく/きみ/〇〇

三連符になってモダンな韻律なのかもしれない。

白川の関屋を月のもる影は 人の心を留むるなりけり 西行

しら/かわ/の◯/◯◯
せき/やを/つき/の◯
もる/かげ/は◯/◯◯
ひと/の◯/こころ/を◯
とど/むる/なり/けり

こんな感じか。

床ねちにぬくまり居れば宿つ女が起きねと云えど起きがてぬかも 斎藤茂吉

とこ/ねち/に◯/◯◯
ぬく/まり/おれ/ば◯
やど/つめ/が◯/◯◯
おき/ねと/いえど//◯◯
おき/がて/ぬ◯/かも

こんな感じか。人によって詠みのリズムは違うかもしれない。

屋上にねころんで手をつないでみた無力な二枚の木の葉のように 俵万智

おく/じょう/に◯/◯◯
ねこ/ろんで/てを/◯◯
つな/いで/みた/◯◯
むりょ/くな/にまい/の◯
この/はの/ように/◯◯

俵万智は難しいな。音韻が現代的なのか?

薄き刃のあたるしづけさ緑陰に入りゆくはパプステマのしづけさ  米川千嘉子

うす./きは/の◯/◯◯
あたる/しづけ/さ◯/◯◯
りょく/いん/に◯/◯◯
いり/ゆく/は◯//◯◯
パプステマ/の◯/しづ/けさ

現代短歌は音韻が掴み難い。

これもまた家族のかたち灰色の下着が二枚並ぶベランダ  小佐野彈

これも/また/◯◯/◯◯
かぞく/の◯/かたち/◯◯
はい/いろ/の◯/◯◯
したぎ/が◯/にまい/◯◯
ならぶ/ベランダ/◯◯/◯◯

三連符主体の読みにしてみた。カタカナはそれで一拍。なんとなく対になっているような気がする。

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