白石かずこ「中国のユリシーズ」
昨日の続きで白石かずこ。白石かずこがなお今、現代詩で重要な詩人として読まれ続けているのは、昨日、中国映画を観てちょっと感じるところがあった。
ちなみにYouTubeでこの詩を朗読する様子も上がっているがそっちは喜劇かと思ってしまった。
「顔がなかった」という詩的言語。それは中国の人民服を着た当時の全体主義かもしれないが、今の中国や日本にも言えることかもしれない。「くちづけのする唇のない」は白石かずこしか言いえない詩的言語かもしれない。「のっぺらぼう」どこかで聴いたな。『ゴールデンカムイ』の登場人物だった。
ふるさとを失った根無し草のユリシーズは、ジョイスのほうではなく、
ホメロスの「オデッセウス」の方だろう。三連続リフレインが効いている。ただのリフレインじゃなく少しずつ言葉をずらすのもポイントが高い。
それは中国の亡命者かもしれないし、北朝鮮の脱北者かもしれない。いや世界中でそうした難民が増え続けているのだ。そうした現代の人々と詩の始源とされる一人ホメロスの「オデッセウス」(ユリシーズ)として詠んだのだ。
「ブルース」とあるのはその前にプレスリーについてのセンテンスがあり動画で語っているようなビリー・ホリデイの衝撃があったからだと思う。白石かずこがジャズの即興演奏にこだわるのは黒人のブルースに対する憧れだと思う。