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包まれたい

前の記事で、
だれかと繋がる手立てとして、言葉にできないものを「包みたい」
と呟いていたら、ふと思い出した事が...。

「包みたい」は「包まれたい」の裏側なのかな、て。

幼児期の秘めた想いというのは、記憶の奥底でずっと眠っているもの。
幼き私を、今は自分自身で包んであげているのかもしれない。

触覚の記憶というのは、きっと身体の深いところで記憶しているのかも。
肌感覚というのは、人の生きる中で計り知れないのかもしれないよね。赤ちゃんはお母さんの抱っこで愛情包まれ育つのだから。

幼き私は、昼寝をしている父の手の平に顔をうずめることで、しきりに愛情を確かめていた。本当は包まれたかったのかもしれない。

そのひとときしか触れられなかったから。
包まれる感覚を覚えておきたかったから。


そして私の肌感覚を信じてあげるなら、それはもっと過去世につながるものだとも強く感じてる。
「包まれたい」
「人肌」
「愛情を注ぐ」

このキーワードを繋げていくと、数霊を見て頂いた先生の言葉の影響もあるのだろうけど、自分の中の「大きな解けない疑問」が、そのパズルをはめるとピッタリ解消するんだ。

それをスピリチャルの世界では過去世のカルマともいうのかもしれない。
それはこの現世で昇華させていくキーワード。

現実世界肉体で生きている私自身が経験を通して感じているのだから実証している事なのかな。人肌が恋しいと思うのはその記憶を呼び起こすからかな。

(...と、話は地の底潜りすぎたのだけど、隠れ家だからいい事にしよう)


そのキーワードを心のどこかに置いて生きていると、色んな出来事や出逢いの意味が腑に落ちるんだ。(このつぶやきはまたにしようっと。)


音に人の有り様が現れる

人の生き方が現れる

そうだよね。

「わたし」は音に、響きに包まれたいんだ。

それは切ない響きかもしれない

熱を帯びた響きかもしれない

愛情を放ち、受け取る響きかもしれない

(今日のつぶやき)



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