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分断の本質と「私達は同じものを見ている」という幻想

私達は同じ場所に居て、同じものを見ていない

人は何かを体験すると、多かれ少なかれ自動的に思考してしまう生き物です。
これを「認知」と言いますが、「認知」について検索すると、2023年現在だとメンタルヘルスの話題が多々出てきます(例:http://mh.cbtjp.net/cbt/)
これは人間関係の様々な所に対して応用できる考え方だと思っています。
例えが極端かもですが、デートで絶叫マシンに乗ろうとしたカップルが居たとします。片側は小さい時に高いところから落下した経験がある。片側は小さい時に父親に肩車してもらいたくさん遊んだ。
こういった場合、二人の間に想起される「第一の感情」は異なることが予想されます。
片方は恐怖を、片方は楽しさを想起させると考えられます。
(第一の感情の違いを乗り越える事が愛することだと考えますが、本題から外れるので今回は割愛。)

価値観は「過去の体験の想起」の積み重ねか

私は、認知があらゆる分断の本質に当たると考えます。
「仲良くなるには共通の体験をするといい」とよく言いますが、果たして認知が異なる相手と共通の体験をするだけで仲良くなれるかというと否です。それをよく言われる言葉で表すなら「価値観の違いを浮き彫りにしてしまう」だとか言われる訳です。
インターネットが存在しなかった昭和の時代は今の我々からは「ちびまる子ちゃん」の様なアニメから想像するしかないですが、情報の供給源である「テレビ」や「新聞」と言ったものを読んでも、我々の様な大衆が想起する感情はその家庭内で消費され、少し広くても会社や学校のコミュニティまでで留まります。
一方で今は、ニュースに対しては誰でもコメントや書き込みが出来ますし、それは全世界に発信されます。
よくTwitterの引用RTやヤフーニュースのコメントでニュースに対して毒のあるコメントをするのが趣味の様な方がいますが、「テレビの前で酒を飲みながら一人で野球中継にツッコミを入れている昭和のおじさん」だと思っています。早く令和になれよ。
こういう人は、相手に価値観の差異を投げかけている自分の行動に気づいていないのでしょう。後にも述べますが、これは無意識か意識かに関係なく相手にストレスを与えているということです。

認知のすり合わせはつかれる

さて、ここまでで認知の差について話をしてきましたが、認知の異なる相手に物事を伝えるのはストレスを感じるものだと個人的な経験から感じています。
理由は思考経路を考えれば明白で、通常の思考に対して、考えた事をそのまま話せば分かってもらえる相手に対し認知の異なる相手は「相手の思考に合わせる」と言う一工程が挟まるからです。
個人的には「コミュニケーションの能力が高い」とは「多くの相手に対して正確に合わせられる様にする」だと思っていますが、「コミュニケーション力が高い」を自称する方の中で「認知の近い相手にウケる話ができる」方も混ざっている様に感じます。
タイプとしては「認知が異なる相手が居る」ということを認識できていないパターン、あるいは「認知に優劣が存在する」と考えているパターンがありそうです。

言葉のやり取りは、互いの関係を守る緻密な盾になる。

バディものや「あうんの呼吸」というものに憧れている人も少なくはないだろうが、基本的に言葉のやり取りをなしに行動を共有するというのは困難を極めます。
非言語的なコミュニケーション(身振り手振り、表情や呼吸などのすべてを含む)が得意な人はそれを実行すればいいのだけど、言語コミュニケーションを主体に行っている人からすると、新たなやり取りを行う事で「価値観の近い相手」に生じる良さ(=コミュニケーションコストの低さ)が失われます。
かと言ってやり取りが減ると、「言わなくてもわかるさ」と言う狎れが進み、本人の気づかないうちに関係の分断を進めることになります。
価値観の近い相手と交わす言葉は、コミュニティーを盾、人をその外周に置かれた点とした時に、硬い言葉の糸を紡ぐようなものなのです。
コミュニティの人と人の間で直接のやり取りが増えれば増えるほど、盾に交わされる糸は増えていき、堅固になる。
逆にいえば、言葉を交わすこととが少なくなると密度は低くなり、盾の間隙が広くなり──コミュニティは容易に貫かれてしまいます。

どうあるべきか、模索しようよ

認知の違いを楽しめるかどうかは環境と(2023年現在では)個人の資質にも依ると考えています。
日々の生活で精一杯な人に、あるいは生きるか死ぬかの人には「認知の違いを認めつつ多様性を受け入れる」だけの余裕はないのかもしれない。
あるいは、言葉が一対一で定義されている人(自閉症スペクトラム障害にありがちな)には中々難易度の高いもののようです。

ただ、それでも言葉をもって認知の違いを認識し、ストレスではなく知的に楽しめるようになるのが、未来の私達にとって必要な進化であると信じてやまないのです。
世界は、私達が全てを直接見聞きするにはあまりにも広すぎるのだから。


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