楽しいはどうして生まれたの?

「楽しい」が生まれた理由


ある時、小学1年生の娘がタイトルの様に尋ねて来た。
深く聞いてみると、「お父さんが楽しいのはなあに?」などの言い間違えではなくどうやら本当に「楽しいと言う感情はどうして生まれたの?」と言う問いだったらしい。
小学1年生なのにかなり考えさせられる事を質問してくるなと感心しつつ、その場では少し私にも考えさせて欲しい旨を伝えて、改めて答えた。

「楽しい事が役にたつからじゃないかな。例えば娘ちゃんもおにごっこをすると楽しいよね」
「わたしはたのしいよ!」
「昔の人や、今の動物もそうだけど、お肉を食べる動物は狩をしなきゃいけなかったから、走って体を動かすことは生きるためにだいじ」
「わたしのピアノは?」
「ピアノもたくさんやると、一度に覚えられる量がたくさんふえたり、道具が使えるようになったりする。それから娘ちゃんがやってるアイロンビーズをじょうずに並べられるようになったりする」

娘は「へぇ~そうなんだ、ありがと!」と言って納得した様子で本を読み始めた。
私は内心、横から小学3年生の息子が「ゲームが楽しいって事はゲームやってればいいよね!?」などとややこしいことを言わないかドキドキしていたが、とりあえず小学校1年生に対する説明としてはこれでよかったのだろうか、と胸をなでおろした。

──しかし、私は大人だ。それも、正直言ってうだつの上がらない方の。
大人は、楽しいSNSをずっとやることが体や心に良くないことだと知っているし、タバコの吸いすぎ、アルコールの摂りすぎや、なんなら体を壊す薬物もキメれば楽しいらしい事を知っている。
良い「楽しい」とそうではない「楽しい」が存在している事を、知っている。
そして、時に役に立たない「楽しい」に負けて、人生を捨てかけてしまうことになる事も。

「楽しい」が役に立たない時もあるけれど

さて、実際問題として、人それぞれ休みの過ごし方にしても「楽しい」には違いがある。家族の中でも私や娘はほとんどの場合人と喋るのが好きだが、妻や息子は「喋ると疲れるから」として、比較的黙々と過ごすことを好むときが多い。

「楽しい」が必要に応じて生まれた感情なら、「楽しい」が人によって違う事のは何故だろうか。例えば日々の怠惰でお腹が出てきた時。痩せたいと思う気持ちは一緒であるにも関わらず、一人は筋トレが楽しいといい結果を出す。一人は辛いといい、運動を止めてしまう事がある。

だから実際は娘に伝えたことは「必ずしも正しくはない」と言う自覚があった。
ただ、わたしの経験上「楽しいと感じることが最終的に1番得意になる」と言う自覚があったので、「楽しいと感じることを大切にして欲しい」と言う願いを込めて、敢えて上のように伝えたのだ。
娘が多様な価値観に触れるのは、もう少し大きくなってからでもいい。

「楽しい」は作れる

少し話が変わるが、メンタルを安定させるための手法として、「瞑想」が提唱されることがある。
ここではやり方を説明しないが、簡単に椅子に座ってでも良い。5分でも3分でも1度やってみるとわかるが、集中するのは案外難しい。
自然に色んな考えが浮かんできて、環境の刺激──音、匂いだけではなく、自分自身の筋肉から受ける刺激等、全てに自分の思考が反応するのがわかる。うるさい、くさい、おいしそう、痛い──等など。
これらの自動思考から自分を切り離す訓練をすることで、悩んでいる時に負のスパイラルに巻き込まれずに済む……というのが、メンタルヘルス的な側面。

実は私は、きちんと瞑想が出来ると、すごく楽しくなる人間なのだ。
「何もしていない」のに「楽しい」とは一体どういうことかと思うかもしれないが、「没頭する事」が「楽しい」に繋がる神経が、ヒトには通っている。そのように思える。

実は私は小学1年生の時すべり台の上から頭から落ちて、軽い高所恐怖症になっています。しかし、仕事では20mぐらい高さのある、屋根を踏み抜いたら消し墨になるだろう重油タンク(フローティングルーフタンクと言う、残量に応じて屋根が上下するタイプだと屋根が腐食しやすい。よって、正確には20m登った後10m以上階段を降りるので最悪である。)に登ったり、プラントの煙突に登ったり、出荷タンクの上に登ったりもする。

私の努力によって全て高所恐怖症を克服したかと言うとそんなことはなく、最近チャレンジしたあべのハルカス16階の庭園すらダメでした。(※300はもちろんリタイア)

……こわいものはこわい。
そんな私ですが、仕事のときはお腹のあたりに意識を集中させて恐怖を外にねじりだすとスイッチがちゃんと入るので大丈夫になる。不思議なものです。

瞑想の小さな目標設定は「周囲の刺激から自分の意識を開放する」事です。それには没頭することも大事なのですが、実際にやっていることとしては正確には小さい刺激を追い出すと言う作業の繰り返しになります。結果、外から見ると眠っているかのような数分間で、小さな達成をたくさん得られます。

「楽しい」がなくならない理由

さて、話を戻す。
楽しくないものは役に立たない…とは限らないが、楽しくないものは続かないというのはどうやら事実であろう。
なにせこの世は楽しいものだらけで、日々社会は人の楽しいを奪い合っている。
(そんな中こんな文章を読んでくれている皆さん!ありがとう!)
人って、"なるべく無駄なことをしないように"出来てるんじゃないかなと言う気がする。
楽しくないことは役に立たない。役に立たないことを時間の無駄にしても仕方がない。やめたくなる。だから、人間は知性で「楽しいこと」を作り出して、なんとか切り繋いでいるのではないだろうか。仮説。

そんな訳で、私は未だにだけれど、もっと誰かの「楽しい」になれないだろうか思案中である。自分が喋りかけるだけで楽しい人だったら仕事で情報も入ってきやすくなるはずだし。
とりあえず挨拶したら絶対挨拶返ってくる人にしようとか、ちょっと見た目良く顔作ってみようとか言うことをコソコソとやっている。
(職場の人にこの文章を見られたら恥ずかしくて死んでしまうなと思う。)

自分が動いて、これは失敗したな、とか、これは成功したな、とか色々試せるので、とりあえず職場に行くのは「楽しい」を維持できている。
そのお陰でなんとか食いつないでいけている。

「楽しい」がこの世に生まれてきて、よかったなと思っている。

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