子供の恐るべき集中力と時間の無駄か内省かー風呂での一コマ
起きたこと
上のこだぬきが、湯船を上がってから、泡遊びを始めて小一時間一人遊びを続けた。
俺は湯船で茹で上がる。
一言も発さず、静かにスポンジと石鹸、ボディソープ、風呂桶で遊んでいた。
あまりに真剣な顔をしていた。
一時間何もすることがなく茹で上がるまま
なので俺は目を瞑り、内省、思考に耽る時間を得ることができた。
スマートフォンを持たずに風呂に入るので、子育て、人生、今後の目標その他をゆったり考える一時間であった。
ただしこれも人によるだろう。自省に慣れないものにとっては、拷問に等しいかもしれない。
しかしこの時間がアダム・スミスのいう公平な観察者を育てる時間なのではないだろうか
ウイキペディアから
公平な観察者(こうへいなかんさつしゃ)とは、アダム・スミスによる人間観の概念である。これは人間が自己を客観的に見るために自らの胸中に持つ、利害関心を持たない人間である。これによって人間というのは自らを観察者と公平な観察者に分割し、物事を是認か否認かの裁決を下すようになるということである[1]。人間というのは多くの人間と生活を共にしていることから、自分の感情や行為が多くの人間に是認されれば嬉しいもので否定されれば辛いとのこと。ゆえに人間というのは、自分自身が様々な人間の感情や行為を判断し、そして自らが様々な人間に自らの感情や行動を是認あるいは否定され、こうして公平な観察者の判断のあり方を学ぶようになるということである。そうして人間というのは、自分の感情や行為に対して公平な観察者ならばどのような判断を下すかを想像して、公平な観察者が是認するであろうものに合わせるようになるということである[2]。
我々が高度な価値の交換を必要とする社会を営むに、必要とされる公平な観察者を育てるための内省、自省、自戒の時間。
これを育てるためには無為の時間が必要だと思う。
スマートフォンーTwitterーお気持ち
内心の公平な観察者を皆殺しにする機械を持って、自分の勝手な観察で暴れまわる時代だ。
末法の世
救いがたい。我が身を救うのはプロテスタントの倫理と資本主義の精神だ。
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