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谷川徹三の宮沢賢治の世界

谷川俊太郎との対談を読んで、「宮沢賢治の世界」が1970年に刊行されていたことを知った。2009年に改装版が出されており、アマゾンですぐ手に入った。
「雨ニモマケズ」から始まり、最後も「雨ニモマケズ」で終わっている。「ヒドリ」はあっさり「ヒデリ」の誤記と解釈しているようだ。2020年初に、ソローの解説で知った今福龍太の「デクノボ―の叡智」を読んで賢治の世界を味わった後に、半年ほどして、中村稔の「宮沢賢治論」が刊行された。曰く「雨ニモマケズ」を読み直し、理解が間違っていたと知り、改めて全集に再度目を通して、大いに見方が変わったので書いた、とあり読んでみたのだが、何とも違和感というか、詩や童話に、やたら論理性を求める心地悪さを感じていた。
何と読み進めた最後の部分で、20ページほどにわたって、中村稔の「雨ニモマケズ」の読み方を批判しているのに出会い、心地よかった。長年にわたり宮沢賢治を読んで、いろいろなところに発表していたものを、改めて読み返して大いに考えを変えたと言いながらも、読み方、受け取り方としては、大きくなんか変わっていないのではないかと思ったほどだ。中村稔を読んだ違和感が、谷川徹三の解説でとてもすっきりと整理できたのが収穫だ。
内容は、5つの講演を年代順にまとめたもの。「雨ニモマケズ」は、昭和19年9月20日、賢治の命日の1日前に東京女子大で話されたもの。戦時でありながら、そんな感覚なく読めた。心の在り方を、病に就いて振り返るメモに、祈りとしての賢者の心を読み取っている。賢治は37歳で没しているが、谷川徹三の1歳下で、徹三が賢治の文学を知ったのは、死んでからというのが悔やまれると書いている。徹三は1989年94歳まで生きた。改めて、賢治がそんなに昔の人間ではないと感じる。
「もろともにかがやく宇宙の微塵となりて」は、東北砕石工場のある長坂村で、この1行を揮毫し、碑を建てた記念の講演録。宇宙は、賢治の詩や童話のテーマでもあり、「農民芸術概論綱要」からの言葉である。農と芸術をつなぐ精神は、建築における技術と芸術をつなぐアーキニアリングにも通じるなどと思ったりする。
「第四次元の芸術」も「農民芸術の綜合」に書かれた内容の論考で、昭和24年9月の東京大学での講演録。「オッペルと象」や「ポラーノの広場」とかかわって考察する。若者たちの実現した理想としての産業組合は、ネグリ&ハートの「アッセンブリ」の中で言われる生産手段を資本から生産者が取り戻せということに通じでいる。「四次元世界というのも、第四次元の芸術とこれを結びつけていえば、その汎神論的原体験の世界ということになるのであります。これを賢治は、その自然体験と宗教体験と社会体験との三位一体の中に現じました。」(p.151)と分析している。
「修羅のなみだ」は、松本市の高校での講演録。「雨ニモマケズ」は中学の教科書に、「農民芸術概論要綱」は高校の教科書にあったという。賢治の自費出版した詩集「春と修羅」から引用しつつ、なぜ自分を修羅に例えたか、なみだの意味は、を説く。
「われはこれ塔建つるもの」は、中尊寺で昭和34年に詩碑の建立記念の講演録。結核の病に伏した2年余りの時期の「疾中 1928-1930」としてまとめられた33編の詩の一つからの一行。病状を描写するもの、幻想を言葉にしたものなどが多い中で、唯一と言っていい前向きな心を謳っている。「雨ニモマケズ」は、その病床から一度、恢復して仕事に就いたが東京で倒れ、花巻に戻ってから再び病床に就いて手帳に書いたもの。冒頭の中村稔の「もっともとるにたらぬ作品」という批評を取り上げ、大いに反論している。
中村稔は、若いときに読んだ理解と老年になって読んだこととの違いの発見を誇らしげに言っていたが、谷川徹三は、読むほどに理解を深め一貫して、その素晴らしさに感動している。「雨ニモマケズ」は、潮見第の2階に手帳の文字を額装して飾ってある。30年ほど前に宮沢賢治記念館で求めたものだ。どう読むか、構成も言葉もやさしいが故に、その裏にある賢治の人生や精神を感じることで、賢者の文学の象徴として味わってよいものだと、改めて納得している。

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