「空気」は、読むものじゃなく、つくって一緒に食べるもの《思いつき日記》
空気って、なんだろう。
時々、考える。
そして、その時々考える時、は大抵、あまり良くない時だ。
「空気を読め」とか、「なんで空気を読めないんだ」とか、
そんな場面に出くわした時。出くわして、落ち込んだ時。
私は、本当に、空気を読めて、いないんだろうか。
そもそも、空気は、私たちにとって、吸って吐くもの。
空気は、いつも私たちの周りに漂って、自由で、満ちていて、でも目には見えないもの。それは時々、そこに無いと思われてしまうくらい、いつもそこにあるのだけれど、時々、肌で心で、暖かさや冷たさや、優しさなんかも感じてしまうくらい、あるって思う時もある。
そんな空気は、本当に読むものなのだろうか。
読まなければいけないものなのだろうか。
空気を読みたい、ってあまり思わないなと考える。
似た状態でそう思う時は、気持ちをわかりたい、って表現する。
読もうと思わなくたって、感じてしまうくらい、体も通り越して心にまで、あったかい、が伝わる空気はなんだろう。
そんな時はいつも、大切な誰かや優しい誰かが、あったかい空気をつくってくれている時だ。相手のことを思って、心から優しさを差し出して、空気に溶かして、届けてくれる。ふたりの間に、その人を囲むみんなの周りに、あったかい空気ができあがる。
差し出された誰かも、あったかいを感じて、また、自分の優しさを差し出したくなる。
空気は、読むものでも、読ませるものでもない。
つくって、差し出して、一緒に味わうものだ。
それは、食事と似ているのかもしれない。
相手のことを思って、考えて、作って、差し出して。
受け取った相手も、相手のことを思って、ありがとうを差し出して。明日はこちらが美味しいご飯を差し出すのかもしれない。
明後日は、つくるのだって一緒。
そして、一緒に食べる。自分も、相手も、一緒に味わう。上手にできても、ちょっと失敗しちゃっても。
「空気を読む」
私たちはこの当たり前のような言葉にずっと怯えているような気がするのは、読ませる空気は、本当は、そこになんか存在していないから。読ませようとしている人の頭の中にある、欲望とか支配だから。
感じる空気は、相手が、相手のためにつくるもの。
対面した人と人との間につくられる、特別なもの。
もし、相手のために差し出しあった空気が溶け合ったら、どんなに幸せな感じがするのだろう。
だからこそ、私たちは、覚悟しなくちゃいけない。
空気のせいにして自分をわかってもらおうと甘えていないで、ちゃんとつくって差し出しあう心遣いをしなくちゃいけない。自分も一緒に味わうと決心しなくちゃいけない。一緒につくろうと寄り添わなくちゃ。それが、空気であっても、言葉であっても、行動であっても、考えてどれを選んでも。
でも、その心を遣うことはきっと、自分も、相手も、周りの人も、爽やかな気持ちにしてくれる。穏やかに過ごせる手段になる。
空気は、読むものでもなければ、読ませるものでは、もっと、ない。
空気は、つくって、一緒に、食べるもの。
一緒につくって食べるもの。
さあ、誰と一緒に、どんな空気を味わおう。
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