遊びと学び 「教科」が持つ境界線
おはようございます。
読みたい本がとにかく積読されていくので、今日は片っ端からやっつけてやろうと企んでいるヒミツキチ森学園のあおです。
今年読んでよかった本はこちら!
さて、今日は遊びと学び「教科」が持つ境界線というお話をさせてください。
若手の先生の言葉に宿る想い
昨日は、若手の先生と1時間半ほど話す。
学級経営を含め、暮らし全般の相談、この先生とは4月以降、7か月ほどゆるく伴走を続けさせてもらっている。
昨日飛び出してきたのは、クラスがうまく回るようになってきた報告。
「あの子はね…」
「ある子はね…」
そんなふうにそれぞれの成長の想いを熱く語る姿だった。
相談事から、嬉しい報告に移った瞬間。長く伴走を続けていくと、こういう瞬間が必ず訪れる。
それが本当に本当に嬉しいことなんだ。
さて、その先生の言葉の中に、
どんぐりを拾って、遊んでいるうちに学びに変わってきた生活科の授業の話があった。
要するに、遊びを没頭して繰り返していたら学びに変わっていたという話だ。
大事なのはそれに対して、この先生が「とってもいい時間だった」という感覚を持ったということ。
先生の感覚「良いことアンテナ」の精度はかなり高いと思うし、それが先生自身の良さに引っかかることなのだとしたら、そういう感覚こそ、大事。忘れないようにしてほしい。
遊びが学びに…
低学年だと「生活科」などを通じて起こりやすいことなんだけれど、他では起こらないのだろうか。
ヒミツキチ森学園の干し柿作り
ボクらの庭には立派な柿の木がある。
1・3・4年目に実っている渋柿。食べたら、舌が砂漠になるわけだが、この渋柿を干し柿にすることを毎年やっている。
今年は、4・5・6年生の海クラスは、干し柿を包丁でむくというチャレンジもしていた。怖さもありながらも、少しずつ頑張る姿、またやったことのないことに踏み出せたことで、充実した表情をいていた。
これは遊びなのだろうか、学びなのだろうか。
子どもたちは楽しみにしているし、季節の遊びのような気もする。
でも、包丁を握る4年生の様子を見ているといろんなことがわかる。
まずは上手な人のものをよく見ている。
初めて包丁を握る子に、柿の皮剥きは難しい。
だから、よーく見ている。
できない子には一緒にやってみたり、手を貸したりしている。不安が先行しないようにフォローはしている。
でも、上手な子が寄り添うこともある。アドバイスを聞く目は真剣だ。
実際に自分で包丁で皮を剥いてみる。
親指で皮に手を当てながら、ゆっくりと力を入れていく。
1つできるようになると、ちょっとだけ進みが早くなる。
でも、慎重に慎重に、怖さも感じながら皮を剥いている。
この時の集中力って、教科の学習の中にあるだろうか。きっとないだろうなぁとも思う。
教科とは違うことをしっかりと学んでいると思う。
「教科」の遊びと学びと
ボクらは休み時間と称して学習と遊びが切り離されたような時間割をもう100年ほど続けている。
教育とは、今やそういうものだと。ボクも子どもの頃から、遊びと学びを切り離された環境で教わってきた。
でも実は、それ以前は遊びと学びはほとんど一緒のものと考えられていた。
休憩せずとも、シームレスにつながる世界があったかもしれない。
昔に戻ろうとは思わない。でも、遊びと学びとを繋いでいくものが、学校時間の中にあると面白いことになりそうだ。
今日話した季節の行事などはそれにあたる。
干し柿だけじゃなくて、十五夜だったり、お正月であったり、いろんなことが生まれてきそうだ。
ボクがやっているキッズヨガもそう。
キッズヨガでは子どもたちが遊んでいるけど、実は大事なテーマを学んでいる。
前回のテーマは「身体の組織」その前は、「繊細さ」。1・2・3年生の森クラスのテーマはこんな感じだ。
遊んで楽しんで、お話し作りしながらのヨガをしているけど、最後の振り返りの言葉には、初めて聞く方は耳を疑う。
この間の見学者はその姿にびっくりしていた。
ボクらはそろそろ真剣に「教科」というものを捉え直さなければいけない。
何を学ぶかではなくて、どう学ぶかによってその枠組みを変更するのもよさそうだ。そして遊びが入り込みやすいのは、どう学ぶかの方なんだと思っている。
学校にあったカタチはちゃんとあると思う。
教科の中身じゃなくて、教科自体の議論をしてみたいなぁ。
今日も読んでいただきありがとうございました。
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