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御郷島へ渡る舟 第四章 おわたい

 翌、十五日の四時半。

 まだ明けやらぬ濃い灰色の空の下、おわたいを見届けようと山田と白は爽果と共に起きた。

 簡単に食事を済ませてから、爽果に付いて吉宝さんへの道を辿る。

 爽果が成継さんに言われて、“橘の宝玉”を紙袋に入れて持って来ている。

「それ、おわたいをするときに持って行くんですか?」

 白が爽果に訊ねた。

「わたしじゃなくて、引き船のスタッフの人に渡しておいて、防波堤の陰に入ったら受け取ることになってます」

 ふむ、と白が考え込んでいる。

「で、そのみかんをほかい様にお供えすると言うことですね」

「御郷島に渡るなんて、昔話ですからね。こういうふうに昔もやってたんじゃないですか?」「昔は“橘の宝玉”はなかったんじゃ?」

 山田は会話に加わり、紙袋を指さした。

「三宅はみかんの産地だから。昔の人は、柑橘類なら何でもいいと考えたんじゃないかな」

 爽果の言葉に、山田は妙に納得した。

「それに、本当におわたいをするわけじゃないから。おわたいのまねごと。何も起こりません」

 爽果が笑ってみせた。

「緊張してる?」

 無理に笑ってないか心配になって、山田は訊ねた。

「うーん、してないかって言われたら嘘になるけど、父だったらこの村の為になるなら、何を言われても復興させるって思っただろうって……」

 それがお父さんへの最後の親孝行だから……、と爽果が呟いた。

「複雑だね……」

 掛ける言葉がなくて、山田は口ごもる。

「心配しなくても良いよ。舟に乗ってみかん持って戻ってくるだけだし。あとは、ほかい様のところへ行って、“橘の宝玉”を供えるだけ」

 たったこれだけ、簡単だから、と爽果が笑う。

 無理に明るくしている感じがして、山田は爽果の横顔を見つめた。

 父を亡くして、目の前で草津が変死し、山田自身もショックを隠せない出来事が続いた。

 それなのに、何事もなかったようにおわたいの乙女役を任されて、心は穏やかではないだろう。

 爽果が健気に頑張っている姿を目にすると、成功してほしいという気持ちが強くなった。

 白が坂道を下りながら海を見ている。木々の枝の間から、太平洋が望める。

「本当なら、あの向こうまで行くはずなんですね……。御郷島へ渡る条件がなんなのか分からないですが……」

 山田はぼんやりと海を眺める白を見やる。

「先生、本当に流されたら、親潮に乗って流されるって照男さんが言ってたじゃないですか。御郷島に辿り着く前に遭難しますって」

「普通はね」

 まるで、御郷島が本当に存在するかのように白がにやりと笑った。

「おわたいを何度も繰り返したのは、成功体験があったからだよ。でなかったらこんなに長く続いてないだろう。だいたい、戻ってくること自体、奇跡に近い。おそらく、おわたいの舟には自力で漕ぐ道具は一切ないからね。潮に乗ったらそのまま沖に流される」

 山田はそれを想像して不安になる。

「こう言うときにそんなこと言わないでください。もしも、何かあったとき、怖いじゃないですか」

「山田君は怖がりだなぁ」

 すると、爽果もクスクスと含み笑った。

「大丈夫。漁港から防波堤まで五十メートルくらいしか離れてないんだもの。遭難しようがないってば」

「そうですけど……」

「なんか、山田君が乙女になったみたいじゃない」

「あはは、本当だね」

 山田は爽果にも笑われて、気まずくなり、そっぽを向いた。


 吉宝神社に着くと、すでに成継と維継が待っていた。もう一度、おわたいの内容を復習して、乙女の誂えの衣装を身につけた。

 朔実や他のおわたい振興会の人達は、漁港で会場の準備を始めているそうだった。この日の為に屋台の準備もしたらしく、町内会の婦人部もてんやわんやらしい。

 まだ一回目と言うこともあって、テキ屋などには頼まずに、村のアットホームな雰囲気を前面に出すという計画だそうだ。

「今、五時半だからそろそろ移動だ。すぐに舟にスタンバイしてもらうことになる」

 衣冠姿の成継がそう言って、十二単のような衣装で歩きにくそうにしている爽果の手を取った。

 維継も車椅子で後に続く。

 こうして見ると、本当に厳かな雰囲気が醸し出される。

 まるで昔からこんなふうにおわたいをおこなっていたような、不思議な感覚に陥った。

 漁港の敷地にロープを張って、観客席と会場の区別をしている。爽果達は会場の中に入った。すでに数人、カメラやスマホを構えた観光客がいて、遠目から爽果達を写真に収めている。

 それっぽいひな壇があり、赤い毛氈もうせんが敷かれてある。脇には、狩衣姿に和楽器を持った青年団が控えていて、音合わせをしていた。


 控え室の代わりに、御簾が掛けられたテントがあって、爽果達はいったんその中で待機することになった。

 観光客が次第に増え、漁港に準備した駐車場が一杯になっていく。

 時刻はすでに六時を回っていた。

 太平洋の水平線がまばゆく煌めき、朝日が顔を出した。朱色にたなびく東雲しののめをかき消すほど、太陽が輝いている。

 おわたいの舟が、防波堤の陰から現れた。五色の布と鈴が垂れる屋形船のような形をしている。

 観光客が朝日に照らされて煌めいて見える舟に歓声を上げて迎え入れた。

 それと同時にこの日の為に練習したであろう雅楽の曲を青年団が演奏し始め、テントから成継と爽果が現れた。

 朝日を背にしているせいで、後光が差しているように眩しい。

 爽果が頭にかぶっている金色の飾り物が揺れる度に、キラキラと美しく光った。

 成継と爽果が朝日に向かう。

 曲が太鼓の音に変わり、成継と爽果が二礼二拍手一礼を行い、この日の為に準備した祝詞を成継が唱えた。

「へぇ、凝ってるね」

 村おこしの為に創作した祭りでも、長く計画していたことが分かる。

 祝詞を奏上し終えると、しずしずと爽果が舟に乗り移った。

 今度は観客のほうを向いて、布のかかった屋根の下に座る。

 舟に結ばれた綱を、小型漁船が曳いた。ゆっくりとおわたいの舟が動き出す。

「朝日がいい演出をしてるね」

 白が感心したように呟いた。

 悔しいけれど、山田もそう思った。

 恐ろしいほど美しくて、畏怖を感じさせた。これが創作のおわたいだとしても、朝日が神聖さを引き出している。

 引き船に曳かれて舟が防波堤を越えたとき、空が暗くなった。

 山田は何気なく空を見る。太陽が隠れているわけでも、雲が空を覆い始めたわけでもなさそうだ。

 気付けば、なんとなく辺りが煙っている。海面からうっすらと霧が這い上がってきていた。あっという間に漁港を濃い霧が覆った。

 観光客も驚いている。しかし、その姿も霧に巻かれて見えず、声だけが聞こえてくる。

 前方から成継の声がした。青年団もガヤガヤと声を上げている。霧で一寸先が見えない為、誰もそこから動けないでいるようだ。

 寒い冬の朝、海面が太陽で温められて、霧が出たのかもしれない。しばらくしたら、きっと嘘のように晴れるだろう。

 それも演出だと落ち着いていれば、余計神秘さに拍車がかかる。

 けれど、振興会の人間は予定になかった事態に、慌てふためいている。それでも、観光客に悟られたくないのか、さっきよりも静かになった。

 十分、二十分と時間が経つにつれ、案の定、霧がすぅっと嘘のように晴れてきた。

 海は凪いで、波も穏やかだ。

 ただ、いくら待っても爽果を乗せた舟が姿を現さない。

 時刻は七時になろうとしていた。

 テントの御簾の陰から、ゆっくりと成継が現れて、何やら青年団に合図した。

 もう一度、雅楽の曲を演奏し始める。

 成継が、海に向かって神に祈るように一礼二拍手一礼をして、祝詞を奏上する。本来なら、爽果が戻ってきて唱えるものなのだろうが、何か思いも寄らないことが起こっているのだ。

「先生」

 山田が小声で白に呼びかけた。

 白は目をすがめて、海の彼方を睨みつけている。

「何か見えるんですか?」

「いいや」

 山田は気もそぞろに、防波堤を見つめていた。

 成継の奏上が終わった。それでも舟は戻ってこない。

 成継が深く観光客に向かって一礼をしたことで、観光客もこれでおわたいは終わったのだと理解したようだ。わらわらと解散し、特産物などを売っている屋台に群がった。

 小さなお祭りだ。見るものがなくなり、一時間もしないうちに観光客もいなくなった。

 まるで、それを見計らったように、成継や青年団が騒ぎ始めた。

 見ているのは村民だけだ。異様な騒ぎに彼らも何か勘づいたらしく、一人二人と会場へと入っていく。

 朔実が村民の前に立ちはだかり、関係者以外立ち入り禁止だと大きな声を出している。

 その横を、山田と白が素通りして、テントの中を覗いた。維継と成継が青ざめている。

「何があったんですか」

 白がのんびりと訊ねた。

「それが……」

 成継が言いよどむ。

「爽果を乗せたのせったきたいが行方知らずなった」

 維継が低い声で告げた。

「え」

 山田は言葉が継げず、固まった。

「それは、濃霧が出たときにですか」

 白が不思議そうに訊ねた。

「そうです。霧が出て晴れたときには、舟がいなくなっていたんです」

 成継がガックリとうなだれた。

「綱が切れたとか?」

「それも考えましたが、綱は切れたんじゃなくて解かれていました。でも、自然に解ける結び方じゃなかったはずですし、海は凪いでいたので、舟が流される心配もなかったはずなんです。なんてことだ……こんなことになるなんて……」

 呵責かしゃくの念に駆られたのか、成継が顔を歪めた。

「今は、後悔している暇はないです。警察には?」

「朔実さんが連絡したはずですから、まもなく町から来ると思います」

 山田はその様子を呆然と眺める以外、どうすればいいか分からなかった。

 オロオロしている山田に、白が声を掛ける。

「山田君、私達はいったんここを出よう。邪魔になるだけだから」

「はぁ」

 促されるまま、山田と白はテントから出た。

 外では、青年団員が屋台を片づけたりと慌ただしく走り回っている。赤い毛氈もひな壇も取り払われている。

 その様子を遠巻きに婦人部の女性達と村民が眺めている。彼らの表情には困惑が張り付いていた。

 明らかに何か大事おおごとが起こったのだと理解しているようだった。けれど、朔実達にどうなっているのかと話しかけるどころではなかったので、彼らは憮然と立ち尽くしているのだ。

 テントから出てきた山田達に視線が集中する。何か聞きたそうに口を開けている村民もいた。

 山田はそんな彼らが気になって横目で見ながら通り過ぎた。

「先生。濃霧に何か意味があるんですか?」

 成継に、「濃霧が出たときか」と、白が確認したのを思い出して訊ねた。

「神隠しの条件じゃないかな」

「神隠し?」

 爽果の舟が流されたことと神隠しが何故関係あるのか、山田はピンとこず、首をかしげた。

「うん。オカルトだけど、霧や雲に巻かれて飛行機や一連隊が消失したって逸話があるよ。それが事実かどうかは別として、神隠しには人的な原因もある。だけど、霧が発生する場所と神隠しに遭うとされている場所が重なる場合もある」

「例えば、何ですか?」

「海や湖、山。霧に巻かれて方向感覚を失い、遭難する。だけど、体験者以外の人間にとって、忽然と姿を消して行方が分からなくなれば、それは神隠しだとされる。不意に神隠しに遭った人間が現れて、その間の記憶がなくても、今だと解離性遁走という精神医学的な症状と考えられると思うけど、時代によっては、神隠しだとされただろうね。民俗研究の文献に、岐阜県の話で御岳参りに行って霧に迷って神隠しに遭ったというのもある」

「先生は、爽果さんが神隠しに遭ったって言いたいんですか?」

 白が足を止めた。

「まぁ、今はまだなんとも言いがたいけど。万智さんはもう家に戻ったかな」

「え? 公民館じゃないんですか?」

「さすがに葬儀も済んだのに、いつまでも公民館にはいないと思うけど。それにとねさんが留守番してるだろうから」

 爽果の家にいったん戻ろうという話になり、万智にどう説明すれば良いか、山田は頭を抱えた。それとも朔実がすでに万智に知らせているだろうか。もしかすると、観光客に交じって万智も見学していたかもしれない。

 スマホを取り出して時刻を見ると、まだ七時半だった。

「万智さん、漁港にいたかもしれないですよ」

「そうかもしれないね……。雨が降りそうな天気になってきた」

 そう言って、白が手のひらを上にして空を見上げた。

 釣られて山田も空を見る。

 あれほど晴れていた空模様が、怪しく曇り始め、心なしか風が強くなってきた。

「凪だったのに……」

「何だろうね。おかしな天候だ」

 山田と白は西山への坂を上りながら、かき曇っていく空と黒く淀んでいく海の色を不安そうに眺めた。


 爽果の家に辿り着いた頃には、しとしとと雨が降り始めた。

 辺りは薄暗く、午前の早い時間なのにまるで夕方のようだ。

 土間に万智の靴だけなく、やはり万智が漁港でおわたいを見ていたのだと分かった。

颯実そうまさんがとねさんと一緒に留守番をしてるんですね」

 玄関口で話をしているのを聞きつけた颯実が奥から出てきた。電話で爽果のことを聞いたのか、不安そうな顔つきだ。

「お帰りなさい。母さんも一緒ですか?」

「いいえ、こちらにまだ帰ってきてないんですか?」

「ええ、まだ。朔実さんから電話をもらって……、爽果のこと、聞きました。爽果は見つかったんですか」

「今、警察が動いていると聞きましたけど……」

「俺はばあちゃんがいるんで、ここから離れられないんですよ。母さんから連絡がなくて」

 白と山田が顔を見合わせる。

「戻りますか?」

 ますます雨脚が激しくなっていく。外を覗く山田の横から白も顔を出す。

「行こうか。颯実さん、傘を借りますね」

 白が傘立てから傘を一本抜いた。

 傘を借り、二人は外に出た。あっという間に足下がびしょぬれになった。キャンバス地の靴に雨が浸透して、靴下まで濡れる。山田は雨の飛沫に目を細める。眼鏡のレンズに雨が当たり、視界が悪い。

「すごい雨ですね」

 雨だけでなく、風も半端なく吹き始め、傘がたわむほどの風雨に翻弄されてしまう。遠雷の音が次第に近づいてくる。

「通り雨っぽくないな」

 急な天候変化に山田と白は呆然としながら、傘などないも等しい状態で、坂を下っていく。

 村のほうから、微かにサイレンの音が聞こえてきた。村内放送で何か注意喚起している。

 下りきったところで、大勢の村民に混じって万智が歩いてくるのが見えた。傘を構えているが、差している意味がないくらい、風が強すぎる。

 雨合羽を着ている村民が山田達に気付いた。

 万智も小走りで近寄ってくる。顔色が悪いのは寒さのせいだけではなさそうだ。

「先生、ここにいらっしゃったんですか」

 安心した様子で息をついた。

「それより、爽果さんは……?」

 白が心配そうに訊ねた。

「警察が捜索隊を出すと言ってましたけど、津波警報が出たので、どうにもできなくて」

「さっきのサイレンは津波警報の合図でしたか……。みなさんは?」

 白が、足を止めて万智と白を見つめている村民に目を向けた。

「うちの家に避難することになって、残りの人達は中山と東山に」

「そういうことでしたか……。全員避難されてるんですか?」

「草津さんのご家族が公民館に残ったくらいで、浜のほうには誰も残ってないと思いますよ」

 結局、戻るしかなく、さきほど下ってきた道を再び登っていくことになった。

 爽果の家に、わらわらとびしょぬれの人達が集う。

 万智が大急ぎで、家中のタオルを持ってみんなに手渡した。

「いやぁ、参ったな……おおごとでしになった」

 村民が口々に言い合っている。中には、こそこそと口さがなく非難する声もあった。

「やっぱい、おわたいのせいだ」

「ほかいさあの祟りたたいだ……」

 聞こえてくる度に、万智の表情が曇っていく。颯実も面白くなさそうに、眉を顰めた。

 山田はおわたい振興会の考え方と村民との間に小さな齟齬があったんだろうと感じた。それが今になって不満と不安になって噴出している。

 けれど、一番辛く不安なのは爽果の家族だ。照男を亡くして、まだ二日しかたってない。さらに、爽果も行方不明だ。

 心ない人達だ、と山田は苦々しく思った。

 座敷のスペースを空ける為、山田達の部屋の布団を片づけた。白が、ぼんやり突っ立っている山田の荷物を自分の荷物とまとめている。

 颯実が雨戸を閉め切って、座敷と仏間を仕切っているふすまを取り去っていく。十五名ほどの村民が、思い思いに座り込み、顔をつきあわせて話し込んでいる。その内容は一様に暗いものだった。

 ほぼ、六、七十代の老人が多く、三十代に至っては一人もいない。

 山田は改めて、これが準限界集落の現状なのだと思い知った。

 白は彼らに混ざって座り、会話の中に入っている。

 老人達も白が照男の客であるのを知っているので、邪険にできない様子だ。

「みなさん、おわたい経験者なんですね」

「そうだ。でも昔のおわたいはこげなんじゃね」

 そうだな、と他の老人も頷きあう。

「どんな感じだったんですか?」

「そうさなぁ、おいはとおくらいじゃったから、だいたい覚えちょっ。藁舟を編んで作って、それそいに紙でできた人型とみかんを いっしょにいっどき乗せて、沖に流した。戻ってこなかとが正式な方法じゃった」

「戻ってこないのが正式なんですか」

「だってな、ばあちゃんが戻ってこなかったってゆちょったし、戻ってこれないだろ、親潮があっとに戻ってきたらおかしい」

「そういうことなんですね。じゃあ、その前の前のおわたいでも戻ってこなかったんですね」

「おう、戻ってこないとゆより来れないよな、なぁ?」

 他の老人も顔を見合わせて頷いた。

 彼らは口伝えで家族から、おわたいで舟は戻ってこない、海に流すだけの祭りだと言われ、信じているようだった。

 認知の齟齬がある。山田は白の隣りに座り、会話に耳を澄ませた。

「だいたいな、乙女とかそげなものを流すなんち、必要ないだろ。確かにつんと御郷島おんごっじまに渡すって聞いたきっけども、そりゃおとぎ話じゃねか。御郷島おんごっじまなんち島はないんじゃっで」

 まっ黒に日焼けした老人がぼやいた。

「島を探したことがあるんですか?」

「何言ってゆてんだ。見つけたみしくっもなにも漁に出たら、分かっだろ。ここら辺りで小島はない。御郷島おんごっじまだってない」

「御郷島は神の島だって聞きましたよ」

「そや吉宝さあが言ってゆてるだけで、ただの言い伝えだ。実際にあるわけない」

 どうも大半の村人は、おわたいに関する認識が、吉宝さん達とはずれているようだった。

 こんなふうに考えていれば、確かに今回の祭りに対して不信感が募るだろう。金集めの為に村の信仰が歪められたと思っているのだ。

「村に若いわけもんがいないなら、出て行ったいた子供こどんらを呼び戻せばよかじゃねか。照男さんのとこにだって立派じっぱ息子むひこがいるんじゃっでなぁ」

「嫁に行ったいっならまだしも息子むひこがいるならなぁ?」

 自分たちの子供を呼び戻せなかったろうに、老人達が好き勝手に言っている。

 万智はせわしなく老人達に茶を注いだり、みかんを持って来たりして、世話を焼いているのを横に、文句を言いつつも彼らは万智の持て成しを当たり前のように受けていた。

 それを眺め、山田は気分が落ち込んだ。

「じゃあ、ほかい様も言い伝えなんですか?」

 老人達が何を言っても気にしてない様子で、白が質問を続けた。

「ああ、あれはあや駄目ぼっじゃ」

「どういうことですか?」

「あんたは聞いたこときたこっがあるか? ほかいさあが歌ってうとているだろ? 気味きぞ悪いわり

「数え歌の節回しと同じですね」

「そうそう、いちりっとかいででもっくぃちんがらびんたのほかいさあおんごっじまやちょんがめ」

 みんな、この数え歌を知っていた。懐かしそうに歌う老人もいる。

「ありゃ、ほかいさあがおい達の真似をしちょっんだ」

「ほかいさあに悪戯てんごしたら、祟られる」

 頭を振って、これがとんでもなくいけないことだと言いたそうにしていた。

「祟るとは? 例えば、どんなことですか」

「いなくなったり、死んだり、いろいろだ。ばあちゃんがゆちょった」

「実際に祟りに遭った人を見た方はいらっしゃるんですか?」

「ばあちゃんとかだな。おいは話しに聞いたきただけだ」

 白が口を尖らせている。

「あの……」

 不意に話しかけられて、山田は「はいっ?」と声が裏返った。

 万智が茶を盆に載せて跪いていた。

「あ……、ありがとうございます」

 万智は相変わらず顔色が悪い。

 娘が行方不明になったのに、他人の世話をしている上、好き勝手なことを言われて黙っているのだから無理もない。

「すみません、寒かったでしょう?」

 そう言われて初めて、山田は自分の服が濡れているのに気付いた。白の様子に気を取られていた。

 熱い茶と一緒にフェイスタオルを渡される。

「あの……」

 山田は何か気の利いたことを言おうとして、けれど余計に何を言ってあげればいいか分からなくなって口をつぐんだ。

 だれかがテレビを付けて、報道番組が画面に表示された。

 鹿児島南部に集中豪雨。津波警報が出ています。住人の方は高台に避難してください。

 そんな文言が流れ始める。

 万智がテレビのほうに顔を向けてニュースを見ている。

「雨、いつ止むんでしょうね……」

 山田がテレビをぼんやりと見つめる万智に声を掛けた。山田の声が聞こえてないようだった。

「母さん」

 廊下から、颯実そうまが万智を呼んでいる声が聞こえた。

 万智が視線を廊下に向けて、立ち上がり、村民の間を縫って出て行った。

 二人が台所へ引っ込んだのを見届けて、山田は白と村民の会話に耳を傾ける。

 老人達が白相手に一方的に世間話をしていて、すでにおわたいやほかい様の話はしていなかった。

 白は老人達の子供の頃の話を、笑顔で相づちを打ちながら聞いている。

 山田は壁に背もたれて、まんじりともせず夜を過ごした。


 気がつくと、いつの間にか座敷にいる老人達は横になって、眠っていた。

 自分の隣に座っていたはずの白の姿がない。トイレに立ったのかと思い、そっと立ち上がった。

 窓は全て雨戸が閉め切られていて、室内は真っ暗だった。雨戸に当たる雨の音が心なしか聞こえない気がした。雨はもう止んだのだろうか。時刻をスマホで確認すると、六時を過ぎている。

 玄関の引き戸のガラスから差し込む光が、真っ暗な廊下の闇を切り裂く。トイレに行くと誰も使っていなかった。きびすを返し、玄関に向かう。

 玄関の土間にはたくさんの靴が綺麗に並べられているが、その中に悪目立ちする白の靴がない。

 土間に降りて、生乾きの靴を突っかけると、閉め切られた玄関の引き戸を開いた。

 冷たい空気に頬がピリピリと痛む。澄んだ空気に肺が洗われるようだ。

 空を見上げると雲ひとつない。昨日からの雨が嘘のように晴れていた。

 木々の間から、太平洋が見える。朝日が水平線から頭を出している。嵐の後に見る太陽は神々しかった。

 山田は突き動かされるように坂道を下っていった。地面は雨でぬかるんでいて、泥で靴が汚れた。

 まだ、中山や東山から村民は降りてきてないようだ。座敷で寝ていた老人達と同じように深い眠りに落ちているのだろうか。

 山田は辺りを見回して、白を探した。探しているうちに中浜まで坂を下っていた。

 自然に足が漁港に向かう。

 漁港にはたくさんの折れた枝や、暴風雨に飛ばされたゴミが散乱している。港の突端にひょろりと背が高く痩せた白の姿があった。

「先生! どうしたんですか?」

 山田は声を掛けて駆け寄った。

「何をしてるんですか?」

 すると、先生がスッと水平線に向かって指を差した。

 何だろうと、山田は海に目をやる。

 防波堤の向こう側に、頼りなげに小舟が波間に揺れている。五色の布が屋形船の柱に巻き付いて乱れていた。

 山田はハッとしてもう一度しっかりと小舟を見た。ゆらゆらと揺れる小舟には、人影があった。

「先生」

「山田君、だれか呼んできてくれる?」

「はいっ」

 山田は、坂を走って西山の家に登っていった。


 慌ただしく玄関に靴を脱ぎ散らかして、山田は万智を呼びながら、台所に駆け込んだ。

 ダイニングテーブルに座ってぼんやりしている万智と、朝食を食べているとね、それを介助している颯実そうまが、驚いた顔をして山田を見た。

「どうしたんです?」

 颯実が唖然としつつ、山田に訊ねた。

「万智さん、颯実さん! 爽果さんの舟が、今、漁港に!」

 それまで色彩のなかった万智の目に光が宿り、口を両手で押さえて、立ち上がった。

「爽果……!」

「それ、本当ですか!」

 颯実も立ち上がり、山田を見つめた。

「はい、この目ではっきり見ました。先生が見つけてくれて……」

 万智と颯実が顔を見合わせる。

「母さん、俺はばあちゃんを見てるから」

 万智が頷いて、山田の横をすり抜けて玄関から外に出た。つっかけの音が足早に遠ざかっていく。

 山田も慌てて外に出たが、すでに万智の姿は見えなくなってしまった。

 肺が痛くなるほど走り続けて、やっと漁港にたどり着いた。

 ちらほら村民が集まっている中に白の姿を探すが、どこにも見当たらない。

 五色の布が垂れた舟が、港に引き入れられて波止場にもやいで繋ぎ止められている。その舟の側に朔実や万智、白と爽果が立っていた。

 爽果の姿を見て、山田は足を止めた。ぼんやりと立つ爽果が胸に両手を寄せて、何かを持っている。自然とそこに視線が引き寄せられた。

 とりあえず、白に呼びかける。

「先生!」

 すると、白が顔を山田のほうへ向けた。

「おー、山田君」

 手を上げて振り、山田を呼んだ。

 近づくにつれ、爽果の姿がよりはっきりと見えた。

 仕立てたばかりの十二単が、何年も着続けたように裾がほつれ、袖が破れて、腰紐もちぎれて脇に垂れている。髪もボサボサに乱れているが、表情は下を向いているので分からなかった。

「爽果……」

 万智が爽果の背中に手を当てている。けれど、爽果は俯いたきり、何も話さない。

「まずは病院で診てもらおう。おいが送っていくから万智はんも来てほし」

「はい。すみません」

 朔実の言葉に万智が頷いて、爽果を抱き寄せた。

 嵐の中、爽果がどれほどの思いをしたのか、山田には計り知れない。みんなの顔つきで同じ事を考えているのが見て取れた。

 そこに、朔実から連絡を受けた成継がやってきた。

「爽果ちゃん、見つかったって……爽果ちゃん!」

 言葉にならない驚きが、成継の顔に浮かんだ。

「見つかって良かった。あの嵐の中で、命があっただけでも……」

 成継が爽果の手の中にあるものに気付いた。

「それ……、まさか橘の? え? まさか、本当に?」

 次第に、成継の表情が明るくなっていく。

「それ、誰が持たせてたんだ? まさか、御郷島から、だなんて言わないだろうね。親父が持たせたのか? とにかく、持ち帰ったのは確かだから。爽果さん、それを貸して」

 成継が爽果の手から果実を取った。

 白の目が果実に釘付けだ。山田も爽果の手から奪うように取られた果実をよく見る。

 鮮やかな黄色の小ぶりのみかん。どう見ても、“橘の宝玉”だ。成継の言うように、最初から持たされていたのだろうか。

「それ、どうするんですか」

 白が興味津々な様子で訊ねた。

「そりゃ、もちろん。奉納するんですよ。元から持っていたとしても、無くさずにこうして持って帰ったことに意味がありますから」

 じゃあ、私は親父にこれを見せますよ、と去って行った。

 万智は呆然とやりとりを見ていたが、朔実が迎えに来たので、爽果を連れて病院へ行ってしまった。

 山田と白は、とりあえず、状況を颯実そうまに説明する為、西山の家に戻った。


 山田は颯実に爽果と万智が病院に行ったことを伝え、そのあと吉宝神社に赴いて、奉納されただろう橘の実を白と一緒に見せてもらうことにした。

 道すがら、爽果の様子がおかしかったことなどについて、白の意見を聞いてみた。

「爽果さん、なんだか様子がおかしかったですね」

 白もそれに気付いているようだ。

「そうだね。何かに心を奪われてるみたいな感じだった」

「衣装がボロボロになってた割に、舟の五色の布は比較的綺麗だったし……」

 同じようにボロボロになってもおかしくない、と山田は続けた。

「まるで、何日も彷徨っていたような雰囲気だったね。それに、あの果実。本当に“橘の宝玉”だと思う?」

「先生は、維継さんが持たせたんじゃないって、言いたいんですか?」

「昨日、濃い霧は神隠しに関連がある話をしたよね」

 山田は頷く。

「もしも、あの濃霧で爽果さんが全く違う場所に辿り着いてたとしたら……? 時間の流れが違う場所にいたとしたら、衣装がボロボロなのは納得がいく」

「まさか」

 山田は信じられなくて笑った。

「霧の中に御郷島があったとしたら……その島から橘の実を持ち帰ったとしたら? 爽果さんはおわたいを成功させたことになる」

 そのとき、村内放送が流れた。

『大切なお知らせがあります。村民のみなさんは、吉宝神社にお集まりください』

 立ち止まって、山田と白は放送を聞いた。

「爽果さんが持ち帰った果実のことでしょうか?」

「うん。それと捜索中の爽果さんが無事だった報告かもしれない」

 放送を聞いた西浜の村民がまばらに表に出てきた。

「なんのお知らせっじゃろよね」

「朝、港が騒がしかった説明じゃねか」

 顔なじみ同士が肩を寄せ合い、歩きながら話をしているのが、聞こえてくる。

 爽果が無事だったことにまだ気付いてない様子だった。

 西山に避難していた老人達も混じっている。爽果が病院に行った頃、丁度自分の家に帰ったのだろう。一息つく間もなく呼び出されて、不満そうな声も聞こえてくる。

大雨うあめやらなんやらで全然ぶんと落ち着けん。おい達をわざわざ呼び出すほどだから、よっぽど大事なんでしえ知らせっなんだろうな?」

いくらどしこ吉宝さあでもなぁ」

 老人達の止めどない不満を、通りすがりに耳にして山田は気分が悪くなった。

 早くこの場から離れたくて足早になる。同じように会話が聞こえているはずの白を見上げる。口さがない老人達の会話など耳に入ってないようだ。

「奉納ってどんなことをするんだろうね」

 などと、楽しそうにしている。

 白のアルバイトに就いて、時折感じるのは、白が本当は他人にあまり関心がないかもしれない、と言うことだった。だから、ひととのコミュニケーションに関して、結構割り切っているような気がする。

 山田は自分が青臭いのは分かっている。ずっと、綿子の死を引きずっている。むしろ、綿子が憑いてなかったら、他人に対してここまで感情的な人間になっただろうか。綿子の死が基準になっていて、彼女の死のフィルターを通して他人の言動に一喜一憂している。

 あとは、経験値が低い。白と比べてはいけないけど、圧倒的に人と接触せずに生きてきたことを痛感させられる。それは綿子のせいでもあるが。

「多分、ほかい様にお供えするんじゃないですか? 爽果さんもそう言ってたし」

 山田は白の隣を歩きながら、答えた。

「ほかい様へのお祀りは、秘儀じゃなかったっけ? 元は神官だけでおこなうもので、今回はデモンストレーション的な意味で乙女役がおこなう、と言うことだったと思うけど。こんなにギャラリーを呼んで、お祀りして良いのかね」

「それは分からないですけど……」

 ほどなくして吉宝神社の一の鳥居の前に辿り着いた。

 鳥居の前には幾人か村民がたむろしていた。鳥居を潜り、二の鳥居を通って境内に入る。

 全村民とまでは行かないが、三十人近くの村民が集まっていた。

 拝殿の前に成継が立っている。手には拡声器を持っていた。

 だいたいの村民が集まったのを見計らって、成継が告げた。

「みなさん、こうして集まってくださって、ありがとうございます。まずは西山の爽果さんが無事に戻ってきたことをお知らせいたします」

 すると、集まった村民達が口々に、「良かった」と言い合っている。文句を言う老人達よりも、安堵する村民のほうが多かった。

 どよめきが収まってから、成継が続ける。

「それと、爽果さんがみかんを持って帰ってきました。もちろん、私も父も“橘の宝玉”を爽果さんに持たせてはおりません。昔の言い伝えで、おわたいで乙女がみかんを持ち帰ったら、豊漁が約束されるとあります。なので、今回のおわたいは成功したということになります!」

 半信半疑の声が起こる。

「まぁまぁ、お疑いの方もいらっしゃると思います。疑念は横に置いて、まずはおわたいの成功を祝いましょう」

 成継の言葉を聞いていた老人が、横に立つ同年代の老人に、「あんなことを言ってるゆっるが、どうせ東浜の朔実辺りが用意しこわんしてたなてたんだろう」と、憎まれ口を叩いている。

 おわたいに対して好意的な村民は、おわたいの成功を素直に喜んでいた。

「では、せっかくお集まりいただいたので、ご祭神の綿津見神様にこの橘の実を奉納する祝詞を奏上いたします」

 成継が拝殿に上がって、祝詞を上げ始め、果実を奉納した。

 思っていたのと違うことに、山田は驚いた。ほかい様にお供えするのではないのか。お供えするみかんは必ずしも、持ち帰ってきた橘の実でなくても良いのだろうか。

 ふと白を見上げると、考え込むように口を尖らせていた。

「先生、あれ」

 山田は納得がいかず、白に話しかけた。

 白は聞こえてない様子で、祈祷の様子を眺めている。おもむろに、呟いた。

「あ、そうか……。見落としてたな……」

「え?」

 どういうことなのか、と白を見つめる。

「おわたいは補陀落渡海じゃない」

 山田は白の言葉に首をかしげた。

「どういう意味ですか」

「うん……、まぁ、後で説明するよ」

 祈祷が終わり、吉宝神社に集った村民がばらけて帰っていく。

「この後すぐ、草津はんの葬式おんぼだな。はぁ、葬式おんぼが続くなぁ」

 そんなことを言いながら、ため息をつく村民もいた。

「爽果さんに話が聞きたい……」

 ブツブツ呟きながら、突っ立っているので、山田は白に何度も声を掛ける。

「先生、いったん爽果さんの家に戻りましょう」

「うーん……」

 白が微動だにしないことに、山田が業を煮やし始めたとき、「つくも君」と呼びかける声がした。

 声のするほうを見ると、吉宝神社に滞在している野田教授が、軽く手を上げて歩いてくるところだった。

 白が顔を上げて、野田教授に気付いた。

「野田先生」

「今から、草津さんの葬式なんだが、君も参列するのかね?」

 山田は、十五日に葬儀をするはずだったが、大雨のせいで公民館に安置されたままだった草津のことを思い出した。

 しかも、草津の葬儀について、山田や白に説明してくれる人は一人もいなかったので、失念していたのだ。

「喪服がないですからねぇ」

 黒っぽいスーツを着た野田教授に、白が答えた。

「それは仕方ないね。ところで、代わりに乙女役をした女の子は無事だったのかい?」

「はい。今病院だと思いますよ」

「さっき、その子が持って帰った橘の実を見せてもらったんだ。面白いね。見た感じ、“橘の宝玉”と同じだった。全く同じかどうかは分析しないと分からないが」

「野田先生はあの果実が橘で間違いないと?」

「間違いないかどうかは今この時点では分からない。ただ、橘は様々な種の総称でね、この橘の実は、おそらくアジア大陸のマンダリン類に近いんだ。沖縄の大学の研究チームが沖縄原産の柑橘タニブターを親に持つ交配種であること、日本産柑橘のルーツであることを明らかにしたんだ。吉宝神社に奉納されていた、千年前の橘の実の種と今回の柑橘を調べれば、当時の橘がどんな種と交雑し起源としているか、もしくは今回持ち帰った柑橘との関連性がどの程度あるか分かるんじゃないかな」

「あの果実が千年前の果実と同一とは考えてないと?」

 白が野田教授に尋ねた。

「どうなんだろう。私が“橘の宝玉”の種を受け取ったとき、正直、干からびてしまっていたから萌芽しないと思ってたんだよ。だけど今回の果実は、興味深い。成継さんに頼んだんだが、さすがに奉納した物は無理だと言われて、泣く泣く諦めた所なんだ」

 野田教授は軽く笑った。

「仕方ないから、“橘の宝玉”を持ち帰って、分析することにした」

「分かります。欠片だけでも良いから譲ってもらいたいですね」

「そうなんだよ」

 山田は二人の会話を聞きながら、野田教授と白が親しい理由をなんとなく感じ取れた。

「まぁ、持ち帰ったという話を信じたら、と言うことなんだけどね」

「全く同じでも違う物であったとしても、調べなければ分からないですからね」

 それじゃあ、と野田教授は公民館でおこなわれる葬式に参列する為、山田達と別れた。

「先生、あの果実、本当に御郷島から持ち帰った物だと思いますか?」

「わからないなぁ。でも一つ分かったことはあるよ」

 山田は首をかしげる。

「何がですか?」

「あの数え歌、『ででもっくぃ』だけど、あれはほかい様の歌だ。ほかい様が『でで』、柑橘を持ち帰ったんだよ。そう考えると、そのあとの歌詞に繋がりやすい。それに、補陀落渡海にこだわりすぎた。実際はもっと単純な話だった」

「どういうことですか」

 山田は訳が分からなくてもう一度、白に尋ねた。

 白はずっと、『初めのおわたいが、実は補陀落渡海であったなら』と言っていた。それが間違っていたというのだろうか。

「それは説の一つだよ。ただ、もっとわかりやすくて可能性が高い伝承があるんだ」

「それはなんですか?」

 山田は白の明るい顔を眺めた。

 事物に纏わる可能性が分かるごとに白の目の輝きが変わる。

「山田君は田道間守たじまもりの伝承を知っているかい?」

 一応、記紀はどちらも読んではいるが細かくは覚えていない。素直にそれを告げると、堰を切ったように白が説明を始めた。

「田道間守という男が、垂仁天皇の命で常世の国に渡り、不老不死の実である『ときじくかくのこのみ』を持ち帰る話がある。同じように常世の国から不老不死の果実を持ち帰ることが、本来のおわたいじゃないかと思うんだ」

『ときじくかくのこのみ』とは一体どういう実なのだろうか。

「それとおわたいがどんな関係があるんですか?」

 多分、白の頭の中で、どんどん展開していく考えが、大量のアドレナリンを噴出させているのか、楽しさを隠せないといった顔つきで、白が答える。

「おわたいで持ち帰った、橘の実だよ! 『ときじくかくのこのみ』は橘の実なんだ」

 やっと山田にも白の言っている意味が理解できた。

「不老不死……、それが“橘の宝玉”ですか」

「うん。しかも、日本だけでなく、世界中に同じような話があるんだ。例えば、北欧神話の黄金の林檎、仙女が催す蟠桃会ばんとうえ蟠桃ばんとう、ローマ建国神話のいちじく、インド神話の飲み物アムリタ、ギリシャ神話のアムブロシア、日本神話の『ときじくかくのこのみ』。それぞれが人間の世界ではなく、神の国、仙界、理想郷、常世の国に存在しているとされている。神の国の御郷島を常世の国とするならば、その島から持ち帰る橘の実を不老不死の果実と考えることができる」

「御郷島から持ち帰ったのは『ときじくかくのこのみ』……」

「この考えを当てはめるならね」

 吉宝神社に残っているのは、山田と白だけになった。おそらく他の村民は草津の葬式に参列しているのだろう。

 さすがに空腹を覚えて、山田は自分たちが朝食を食べ損なっていることに気付いた。

「先生、その話は爽果さんの家に戻ってからしませんか」

 白が腕時計を見て、ちょっと残念そうな顔をした。まだ喋り足りないのだろう。

「そうですね。とにかく、この説で符合することがたくさんあるので、戻ってノートにメモしないと」

 ウキウキした足取りで、白がさっさと鳥居を潜り、西山へ向かい始めた。

 山田は慌てて白の後ろについて行った。


 颯実そうまが用意してくれた遅い朝食をとり、湯飲みを持って、山田と白は居間に移動した。

 こたつに潜り込み、熱い茶を飲んでいると、白が話を振ってきた。

「さっきの話の続きなんだけど」

 何の話か思い出そうと記憶を辿っている山田の返事を待たずに、白が話し出した。ずっと話したくてうずうずしていたようだ。

「御郷島から持ち帰ったのは『ときじくかくのこのみ』なんだ。それは話したね。その橘の実は常世の国のもの。いわゆる神の食べ物だ。神の食べ物だからこそ、不老不死を人にもたらす。“橘の宝玉”はその神の食べ物の種から実った。果たして“橘の宝玉”も同じ作用を人に齎すのかな? とても興味があるけど、柑橘系は食べたくない」

「それじゃあ、本当に不老不死になるのか分からないですよ」

「君が食べてみたら良いよ」

 山田は「うっ」と言葉を失った。あの汚臭のする果実は口に入れたくない。到底、人が食べるものとも言いがたい。他の人が何も感じていないから、おそらくあの異臭を感じているのは自分だけだろうし、綿子が踏み潰したことにも何か意味があるのだろうし、とにかく口にしないことが吉だ。

「僕は遠慮します」

 すると、食べてみたらと言ってのけた白が、あからさまに落胆した。

「先生、僕で人体実験するのはやめてください」

「そんなつもりはないよ」

「うそだ」と、山田は思いながら睨みつけた。

 白は白々しく茶をすする。

「常世の国は海の彼方にあると信じられているのは知ってる?」

「そういうふうに解釈している研究者もいますね。先生もこの前言ってましたよね」

「うん。海の彼方の神の国、または理想郷と言う考え方は、沖縄のニライカナイと同じものじゃないかな。それを踏まえて考えると、昔、おわたいを考えた三宅村の人達は、常世の国である御郷島へ渡り、不老不死の果実を持ち帰る儀式をすることで、これからの豊漁を判じたんじゃないかな」

「内陸じゃいけなかったんですかね」

 白が山田の言葉に笑う。

「山田君はしょっちゅう目にするものに対して想像を膨らませたりしないの? 山の側に住む人達は山に。川の側に住む人達は川に。海の側に住む人達は海に。君みたいに内陸に住む人達は住んでいる土地に。それぞれがそこに神が宿るんじゃないかと想像を膨らませる。天を見れば天に。目にするあらゆるものに神の存在を感じる。アニミズムの考え方だよね。昔の三宅村の人達は、海の彼方に理想郷である御郷島が存在していると信じた。御郷島へ舟で渡るときに、舟に清い少女を乗せたのは、乙女が巫女の役目を担っていたからかもしれない」

「男じゃ駄目だったんですか?」

「吉宝神社のご祭神を覚えてる? 今日祝詞を奏上してたときに、成継さんが言ってたよ」

「綿津見神ですね」

「海の神は女神と通俗的には言われてるけど、日本神話では男神であることが多い。巫女はその神を連れてくる役目を担っている。でも、舟で渡り、戻ってくるおわたいでは、かんなぎよりも巫女のほうが道理に叶っていると考えられたんだろうね」

「でも帰すんでは?」

「そこなんだよね。なんで帰す必要があるんだろう。必ず帰すには理由があるはずなんだけど、とねさんも維継さんもその理由を知らなかった。あまりにも長く正式な形でのおわたいがおこなわれなかったことの弊害かもね」

 そこに、颯実が籠に入れたみかんを持って来た。

「これ、どうぞ」

「あ、どうも」

 籠の中のみかんからは悪臭はしなかった。温州みかんと同じ見た目なので、もしかしてと思い、山田は訊ねてみた。

「これは、三宅ミネラルみかんですか?」

 颯実そうまが笑顔で「そうです」と答える。

「そういえば、颯実さんもみかんアレルギーなんですか?」

 山田は、万智と爽果がアレルギーだと言っていたのを思いだした。

 すると、察したのか、颯実が笑った。

「父から聞いたんですか? 俺は父に似たのか、アレルギーじゃないんです」

「じゃあ、“橘の宝玉”は試食されたんですか?」

 颯実が苦笑いを浮かべる。

「いえ、俺は食べてないですね。山田さんは?」

「僕も食べてません」

「まさか、山田さんもアレルギーとかじゃないですよね?」

 冗談で言っているのか、いたずらっ子のような笑顔で颯実が訊ねた。

「あ、いえ……、その……」

 みかんは好きだが、“橘の宝玉”だけ臭くて食えないなどと余計なことを言ってしまったら、面倒な言い訳をしないといけなくなる。みかん全般食べられないことにしたほうがいいかもしれない。

「みかんは苦手で……」

 すると、父親によく似た残念そうな表情を浮かべて、持ってきた籠を持ち直す。

「じゃあ、りんご食べますか」

「あ、お構いなく」

 自分達は、家人が忙しいときに長居する客のようなものだと、山田は申し訳ない気持ちになった。

 突然のけたたましいコール音に、山田は驚いて、音のする玄関のほうを見た。

 颯実が慌てて廊下へ出て行った。

「はい!」

 緊張した声で電話を出たが、その後に続く声は穏やかだったので、知り合いか、もしかすると万智かもしれないと、山田は会話の内容に耳を澄ませた。

「ほんと? 良かった。わかった。うん」

 安堵するような声で受け答えしている。電話を切ったのか、しばらくして颯実が戻ってきた。

「爽果が帰ってくるそうです。どこも悪くなかったみたいで……。先生が見つけてくださったから、すぐに病院に連れて行けました。ありがとうございます」

 ぼんやりと何か考えている様子だった白が、夢から覚めたような顔つきで遠慮がちに手を二回ひらひらさせる。

「いえいえ、たまたまですよ」

「そういえば、なんで今朝、漁港にいたんですか」

「あー……、朝日が見たかっただけかな」

 白が嘘をついているようにも見えなかった。それに嘘をつく理由もない。ただ、なんとなく気になって、聞いてみる。

「ほかい様を見に行ったんじゃないんですか」

「うーん……、海水が浸ってて、岩場が歩きにくそうだったから見に行ってないよ」

「見に行こうとしてたんですね……」と、山田は心の中で呆れた。

「十三日以降、見に行く機会をことごとく逃してるから、日の出てるうちに見に行きたくて……。そうだなぁ、成継さんに頼んで、ほかい様をお祀りしているところを見学させてもらおうかなぁ……」

「秘儀って言ってなかったですか」

 白がくしゃっと髪をかき混ぜる。

「見たいなぁ」

 人の言うことをちっとも聞いてない。

 正直に言うと、山田も見たい。どんな悪霊や禍ツ神が封じられているのか、それとも乙女が封じられているのか、知りたいと思っている。封じ方を知れば、綿子の怨念だけを封じることができるかもしれない。

 白はできないと言ったけれど、綿子から怨念を切り離せば、また昔のように明るく優しい綿子に戻るかもしれない。

 あんな無念と恨みに歪んだ顔を見たくなかった。潰れた顔も元に戻るかもしれない。

 割れたスイカのような頭を、目と鼻の先で見たくないのもあった。どんなに綿子が好きでも、怖いものは怖い。

 それに、こんなに綿子が夢に現れることはなかった。何を言いたいのか、山田にはどうしても分からなかった。

 気になっているのはほかい様だけではない。今朝の祝詞の後、成継はほかい様のお祀りをしたのだろうか。いくら、今年から乙女にお祀りさせることにしたとは言え、この不測の事態において、まさか失念したはずはなかろう。

 毎年おこなっていたのは維継だ。引き継いだ成継が今年のお祀りを責任持っておこなわねばならない。

 さらに、おわたいの成功で、成継ははっきりと、「豊漁が約束される」と告げた。少なくとも振興会の人達は浮かれているだろう。

 成功したおわたいと度重なる死、幸と禍の二面性に、山田は不吉な予感を覚えた。


 表から、車のエンジン音が聞こえてきた。朔実が、万智と爽果を西山まで送ってくれたのだ。

 颯実が、急いで表に出た。ガヤガヤと楽しげに話をしながら、母子おやこが家に入ってくる音がした。

 山田と白も廊下に出てきた。

「お帰りなさい、お疲れさまです」

 労いながら、山田はぼんやりとした爽果に目をやった。

 意気消沈している様子だ。大雨の中、荒れ狂った海でひと晩耐え抜いて、すっかり疲れ切ってしまったのだろう。

「じゃ、爽果ちゃん。養生よじょしろよ」

 そう言って、朔実が帰っていった。

 万智が爽果に肩を貸して、部屋まで連れていった。颯実も心配なのかあとに続く。

 山田は何もしてやれることがなく、何もできない自分のふがいなさを痛感しながら、居間のこたつに潜り込んだ。

時間薬じかんぐすり

 ぼそりと白が呟いた。

「時間が経ったら、爽果さんは元気になるって言いたいんですか?」

「それ以外に、何か良い方法があったらいいけど」

「元気づけるにしても、いろんなことが爽果さんには重たいですよ」

「そうだねぇ」

 などと、のんきにノートを付けている。

 自分も今回のまとめか何かをメモしたほうがいいのだろうかと迷っていると、万智が居間に顔を覗かせた。

「私が留守の間、颯実はご迷惑掛けませんでした?」

 万智の背中越しに颯実が顔を出して、「ちゃんとしたよ」とぼやいている。

「先生、お昼食べました? 颯実も、おばあちゃんにお昼ご飯食べさせてあげた?」

「あげたって」

 信頼しろよー、と颯実が台所に入っていき、食卓に座っていたとねを支えて居間に連れてくる。

「ばあちゃんの好きな番組始まるぞ」

 こたつにとねが入り、颯実がテレビを付けると、しんと静かで空気の重たかった室内が、一気に明るくなった。お茶の間に笑いが起こる。

 とねはじっとテレビを見ているが、あまり表情に変わりがない。

 本当にこの番組が好きなのか、山田には見当も付かない。

 じっと、山田がとねを見つめていると、とねも山田を見つめ返した。

「かならっけ」

 山田の心臓がドキッと跳ねた。

「え?」

 聞き返したときには、とねは目を閉じていて、舟をこぎ始めた。

「かならっけって言ったね」

「必ず帰すって言いましたね」

 山田は白を見る。

「爽果さんが海で行方不明になって、翌日に見つかった。必ず帰す……か」

「爽果さんをまた海にってことですか?」

「さぁね……とねさん、元気なときに会いたかったなぁ。残念」

 白がつまらなそうにそう言うと、ノートに汚い文字で何かを書き付けた。


 暖かな部屋の掃き出し窓は、外との温度差で結露している。窓ガラスの向こうの冬枯れた庭を鶏が右に左に行き交うのが見える。

 テレビが昼のワイドショーを流している。テレビの音とこたつの暖かさが心地良いのか、とねがうつらうつらしている。

 颯実そうまの切ってくれた無骨な形のりんごが、深皿に盛り付けられてこたつの上にある。

 先生が考え込みながらノートを付けていて、山田はそれを眺めてぼんやりとしていた。

 廊下から、ゆっくりと歩くスリッパの音が聞こえてきた。

 山田はなんとなく気になって顔を上げると、廊下を爽果が通り過ぎた。

「爽果さん」

 休んでいるのではなかったのかと驚いて、山田は爽果を呼び止めた。

 爽果がくるりと山田を振り返る。

「山田君。ちょっと、わたし、出掛けてくる」

 元気なく黙り込んでいた爽果とは見違えるほど、言動がしっかりしている。

 爽果が起きてきたことに気付いた万智も、台所から廊下に出てきて声を上げる。

「爽果、あんた、ちゃんと休んでなさい!」

「ううん、おわたいの最後のお祀り、やってないでしょ? あれやんないと」

 山田が立ち上がるより早く、白が立ち上がる。

「ついて行きますよ。一人じゃ危ないから」

 白が、あわよくば秘儀であるほかい様のお祀りを見ようと思っているのが、山田には透けて見えた。

「先生が行くなら、僕もついて行きます」

「駄目です」

 先ほどまで我ここにあらずという様子だったにもかかわらず、爽果がはっきりとした意思を込めて断ってきた。

 けれど、万智が爽果の腕を強く手に取り、外に出すまいとする。

「私は反対。行くなら明日にしなさい。そうよ、ほかい様のことは成継さんに任せなさい。あんたがわざわざ行かなくてもいいから」

「そういうわけにはいかないの。乙女としての役割なんだよ。むしろ、成継さんは必要ない。わたしだけでやんないといけないの」

 頑なに爽果が言いつのる。

「それに、お父さんとわたしは乙女をやるって約束したんだよ。それは最後までしっかりやれって意味じゃないの。おわたいが成功したなら、お父さんは最後まで責任持ってやれって言うんじゃない?」

 万智が照男のことを引き合いに出されて怯む。それを見逃さず、爽果が続ける。

「ほら、お母さんだって、お父さんの遺志を大事にしたいって、本当は思ってるじゃない。私もお父さんとの約束を守りたいから乙女を引き受けたんだから、ちゃんとほかい様のお祀りをしておわたいを終わらせたい」

 万智は不服そうに唸ると、やがて諦めたように大きなため息をついた。

「吉宝さんに電話する。それでいいって言われたら行きなさい。でも吉宝さんまで、お母さん、付いていくから」

 納得できたのか、爽果もそれ以上言い返すこともなく、万智が吉宝さんに電話するのを横で見ていた。

 山田は、おわたいの乙女役を照男に頼まれたと、爽果が話していたのを思い出す。亡き父の遺志を引き継いだのは父親への最後の親孝行なのだと、強い意志で決意していた。

 白にも視線を送る。爽果の頑なな態度に興味を持っている様子だ。成継がどう答えるのか知りたいようだった。

 万智が爽果の言い分を成継に伝えると、電話越しからでも良く聞こえる声で成継が答えた。

『ああ、そうだった。爽果さんに問題がないようでしたら、ほかい様のお祀りをお任せしますよ。“橘の宝玉”を持って来てもらえたら』

 今年は、三宅ミネラルみかんではなく、“橘の宝玉”をお備えに使用するつもりらしい。

 白が、万智に話しかける。

「今回爽果さんが持ち帰った橘の実は? あのまま奉納するんですか。ほかい様にお供えしなくても良いんですか?」

 白の声が聞こえたのか、万智を通して、成継が言った。

『同じ物ですから、問題ないでしょう。“橘の宝玉”だっておわたいで持ち帰った橘の実ですから』

 万智が納得いかないという様子で電話を切った。

「やっぱり吉宝さんまで、車で送る」

 万智が断固として譲らないので、結局、爽果に“橘の宝玉”を六個持たせて、山田と白もいっしょに軽自動車に乗せると、西浜の外れにある吉宝神社まで連れていってくれた。

 爽果と山田達は、吉宝神社の一の鳥居を潜り、成継がいる作務所に向かった。

 作務所の引き戸を開けると、もったりとした暖気が流れ出てきた。三人は急いで中に入る。

「すみません」

 山田が声を掛けると、目の前のドアが開いて、成継が顔を出した。

「待ってたよ。注連縄しめなわ祝詞のりととこれがお供え物を置く三方さんぽうね」

 それぞれを二つの紙袋に入れて山田に手渡してくれた。結構重たくて、山田は思わず「重っ」と呟いた。

 それを聞いた成継が爽果を見る。

「一人で持って行けるかい?」

「大丈夫です。これを教えてもらったとおりにお祀りすれば良いですね」

 爽果の言葉に成継が頷く。

「今日は晴れてて良かった。それにしても、大丈夫かい? 体の調子は」

 まるで何事もなかったように、爽果が笑顔で答える。

「大丈夫です。今朝は疲れてただけですし。少し休んだら疲れが取れました」

 山田が本当にそうなのかと危惧して、爽果を見つめていると、白が爽果の後ろから話しかける。

「一人で持って行ける? 私も手伝おうか?」

「いえ、わたし一人で大丈夫です。心配は要りません」

 かなりきっぱりと言われて、さすがに白もしつこくできないようで口を閉じた。

 つまらなさそうに白が先に作務所から出た。

 吉宝神社の裏手まで、成継が送ってくれる。

 赤と白の縞模様のパイロンを退けて、紙袋を持った爽果が岩場に降りた。

「気をつけて」

 成継と白が声を掛けた。

 山田は崖の洞窟へ歩いていく爽果を、心配と不安の入り混じった気持ちで見送った。

 岩場はかなり起伏が激しい為、爽果の向かう先は岩に隠れて見えない。やがて爽果の姿も岩場の先に見えなくなった。

「これでおわたいも無事に終わりましたね」

 心なしか表情を明るくして成継が言った。

「今回のおわたいは初めてでしたし、過去のほかい様のお祀りも多分こうやって乙女がやったと思いますよ」

 山田は成継の言葉に疑問を持った。

 おわたいから帰ってきた乙女は六人以外いないのではないか。実際に過去二百年のうちでおこなわれた藁舟のおわたいでも舟は戻ってこなかった。

 戻ってきたことでおわたいは成功とみなされる。帰ってきた乙女は過去六人。ほかい様の数だけ成功した。

 成功したのがいつの頃かも分からない、記録に残っていないと維継自身も言っていた。

 毎年父親の維継がやってきたことに、成継にはどこかしら不信心があるのかもしれない。

 でなければ、自分が率先してお祀りをすると言うだろう。

 むしろ、封じなければならないようなものに畏怖を感じないと言うだけで、三宅村に連綿と受け継がれてきた民間信仰への侮りを感じる。

 白がそわそわしながら岩場の先を、目を大きくして眺めている。

「先生、そんなに見ても、さすがに無理ですよ」

 現に、山田は目が悪いのも相まって、岩場の先はぼけて何も分からなかった。

「視力は二.〇あるからよく見えるよ」

 山田は眼鏡を掛けてようやく一.〇になる。羨ましさが思わず声に出る。

「目が良いですね!」

「アフリカの狩猟民族ほどじゃないけど。それに岩場を透視するような力じゃないから、役に立たないなぁ」

「私は老眼と近視で遠くを見るのは得意じゃないですね」

 山田と成継は、素直に白の視力の良さを羨ましがった。

 一時間ほどで戻ってきた爽果と山田達は、成継と別れを告げて西山に戻った。


 爽果達母子おやこと夕食後団欒している時、雷のような音が外から聞こえてきた。

 山田は会話をやめて、掃き出し窓の外に目をやる。

「なんの音? 雨?」

 万智が不思議がってこたつから出ると、掃き出し窓から外の様子を窺った。

 山田もこたつから出て、万智の隣に並んで、外を眺めた。

「空の色が変ですね」

「本当。やっぱりまた大雨になるんじゃないかしら」

 内陸側の空の色がどことなく不気味に淀んでいる。遠くの町の光が空の雲に反射しているのだろうか。濃い灰色とくすんだ朱色、雲間から薄ぼんやりと透けて見える月明かり。

 巨大な一つ目が、空から三宅村を見下ろしているようだ。

 轟音はまだ鳴り続けている。どろどろとも、ごごごごとも、どんな擬音も当てはまらない。音の出所が判然としない。空なのか、それとも山のほうなのか。

 山が吠えているような、巨大な鬼がいているような、そんな不気味な音だった。

 万智がつっかけを履いて外に出る。山田や白も続き、夜の寒空の下、ぼんやりと空を見たり、暗くてよく分からない太平洋の彼方に目をやる。

「まだ鳴ってるけど、雷っぽくないな」

 颯実が呟いた。

「不気味だ……」

 と、山田は白を振り返った。

 白が、黒い塊にしか見えない東山の稜線から、三宅村を舐めるように視線を移し、海の彼方に顔を向けている。

「何か見えましたか」

 山田は白の隣に立った。

「まきあみ漁の船を見てる」

 山田も海に目をやる。太平洋沖に夜間操業の漁船の漁火いさりびが、点々と海の星のように散らばっているのが見えた。

「この音、なんでしょう?」

「何だろう……」

 白にも分からないようだった。

 万智と颯実も首をかしげながら家の中に入っていった。

「先生、家に入りましょう」

 山田は冷たい風に頬を強ばらせて、鬼哭を背に家の中に戻った。


 その夜は朝早くからいろいろなことがあって、すっかり疲れ切った山田は、あっという間に眠りに落ちた。

 ふと目を開けると、暗いねっとりとした墨色の中、頭を下にして緩やかに落ちていた。とにかくずっと落ち続けているとしか分からない。

 自分にしがみつくものがいる。胸の辺りに頭が見えた。

 ひっしとしがみつく手が、徐々に山田の服の胸元や腕に爪を立てて、這うように顔を近づけてくる。

 山田は夢だとすぐに気付いた。

 綿子と目が合った。自分と同じ顔。山田ははっきりと綿子のおもてを見た。

 その瞳と口元が、引き攣って歪んでいる。

 無念と怨みで綿子の顔色は青黒い。

 歪んだ口が、何度も何度も開いたり閉じたりしている。山田に何かを訴えている。しかし、声は全く聞こえない。まるでサイレント映画のようだ。

 開いた口の中が真っ黒だ。何もない。山田は綿子のブラックホールのような口から目が離せなかった。

 それなのに禍々しい口とは反対に、山田を凝視する瞳の奥には灯火が点っていた。山田を見透かすように澄んだ瞳。綿子に残された唯一の正気なのかもしれない。

 その正気に向かって、山田は話しかける。

「綿ちゃん、僕に何を言いたいの」

 落下する重力に負けて首が痛い。それでも山田は必死で、綿子の言葉に耳を傾ける。

 泥のような暗闇の中、山田と綿子だけが白い光を帯びている。

 二人はゆっくりと落下し続ける。

「綿ちゃん、教えてよ。僕に何を言いたいんだ」

 綿子の口が次第に喚くような動きに変わる。大きな声で何かを叫んでいる。

 読唇術が使えれば、綿子の言いたいことが理解できるのに、と胸が締め付けられる。

 そのとき、重たい衝撃が頭に響いた。

「あ……」

 目の前で、綿子の頭がひしゃげる。

 落下するトマトが地面にぶつかって潰れるように、ゆっくりと、綿子の頭蓋骨が陥没し、顔にめり込んでいくのが視界に入る。額の内側から、割れた前頭骨が飛び出した。薄いピンク色の白い塊が、チューブから押し出されるように綿子の額から漏れて、山田の頬にかかった。

 綿子の綺麗な目玉が眼窩から飛び出す。完全に頭蓋骨の上部が、綿子の頭の下半分にめり込んだ。

 山田は自分の視界も同じようにひしゃげていくのを感じた。鋭い痛みが頭を襲い、苦痛に泣き叫んだ。

 見る陰もない綿子の口が、まだ動いているのが微かに見えて、やがて暗転した。


 空気をひゅっと吸い込み、山田は汗だくで目を覚ました。思わず両手で頭を確認する。

「良かった……夢だ」

 叫び声は上げてなかったようで、隣で白が胸に分厚い本を抱えたまま、熟睡していた。

 寝間着替わりのトレーナーが汗みずくで、じっとりと湿っていて気持ち悪かった。

 山田は夢の中の綿子を思い出す。

 綿子が何かを伝えようと喋っていたが、山田には理解できなかった。

 何を伝えようとしているか、もしも理解できたら、綿子の気持ちは楽になるだろうか。そんなことばかりが脳裏を巡る。

 山田は布団から体を起こし、部屋の隅に置いているボストンバッグに這い寄って、中からハンドタオルを取りだす。

 汗のにじむ体を拭くと、冷たく湿ったスウェットは畳んで、洗濯物を分別する為のビニール袋に入れた。

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